ジダンの登場
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「サッカーフランス代表」の記事における「ジダンの登場」の解説
1998年のワールドカップに出場したチームからは、見た目で分かる変化を遂げている。それまでのフランス代表は白人主体のチーム構成であったが、アフリカや、カリブ海などのフランスの国外、若しくは旧植民地からの移民、若しくはその子孫の選手が増えたのである。 地元開催の前回大会となる1994年アメリカ大会の出場を逃すと、フランスは辞任したジェラール・ウリエのアシスタントだったエメ・ジャケを代表監督の座に据えた。ジャケはそれまでの伝統的な白人主体のチーム構成に、アフリカやカリブからの移民、その子孫を入れ始めた。その象徴が、ジャケ率いるフランス代表の中心選手となったアルジェリア系ベルベル人の子ジネディーヌ・ジダンである。 フランス代表にはそれ以前に移民やその子孫が存在していなかったわけではなかった。レイモン・コパはポーランド系移民で、プラティニもイタリア系の移民であった。マリユス・トレゾールやバシール・ボリなど黒人選手もいた。しかしこの目に見えるフランス代表の変質はフランスの国粋主義者によって罵倒されることになった。この代表格である極右政党国民戦線のリーダージャン=マリー・ルペンは「ラ・マルセイエーズを歌えない者にフランス代表が務まるか」と発言して物議を醸した。またジャケのもとには彼等を代表から外すようにとの脅迫が舞い込んだ。 ジャケはFWの得点力不足や選手選考など、様々な批判を浴びながら自国開催の1998 FIFAワールドカップに臨んだ。しかしジダンを中心とした豪華な中盤と、安定した守備を武器に順当に勝ち進んだ。グループリーグを3連勝で突破し、決勝トーナメント1回戦ではパラグアイの堅い守備に苦しみながらもローラン・ブランのゴールデンゴールで勝利。準々決勝で最大の敵イタリアとの死闘をPK戦の末に制すると、準決勝ではクロアチアをリリアン・テュラムの2ゴールで破った。そして1998年7月12日、スタッド・ドゥ・フランスでの決勝はジダンのヘディングによる2ゴールと終了間際のエマニュエル・プティのゴールで前回王者ブラジルに3-0で勝利し、様々なルーツを持つ選手たちが集まったフランス代表は自国開催で優勝という責務を果たした。試合後シャンゼリゼ通りはトリコロールで埋め尽くされ、凱旋門には国民の英雄となったジダンの顔が映し出されるなど熱狂の渦と化した。こうして様々な批判をかわしたフランスワールドカップ以降ジダンを初めとするフランス代表の移民の子孫たちは、フランス社会における移民の成功者、代弁者として扱われるようになった。2002年日韓大会直前のフランス大統領選挙でのルペンの躍進に際してジダンが政治的なメッセージを発したことにも関連する。
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