シーウルフの喪失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/06 11:07 UTC 版)
「シーウルフ (サーゴ級潜水艦)」の記事における「シーウルフの喪失」の解説
シーウルフがナーワルと信号を交換した同じ10月3日朝、対潜掃討のためモロタイ島の泊地を出航した第7艦隊(トーマス・C・キンケイド中将)所属の第77・1・2任務隊(クリフトン・スプレイグ少将)は呂41の攻撃を受ける。護衛空母ミッドウェイ (USS Midway, CVE-63) とファンショー・ベイ (USS Fanshaw Bay, CVE-70) は目ざとく魚雷を発見して回避したが、護衛駆逐艦シェルトン (USS Shelton, DE-407) は1本を回避したがもう1本が艦尾に魚雷が命中、航行不能となった。僚艦リチャード・M・ローウェル(USS Richard M. Rowell, DE-403)は大破したシェルトンの警戒に当たりつつ敵の捜索を始めた。11時30分、ミッドウェイから対潜爆弾を抱えたTBF アベンジャー2機が発進した。 間もなく、ミッドウェイから発進したアベンジャー2機のうち1機が潜水艦を発見し、これに2発の対潜爆弾を投下した。その海域はアメリカ軍潜水艦にとって安全地帯であり、部隊が攻撃を受けた海域とは18海里も離れていた。同地点は染料でマークされ、リチャード・M・ローウェルが急行した。リチャード・M・ローウェルは1回目のヘッジホッグ攻撃を行ったが、効果はなかった。その時、リチャード・M・ローウェルは潜水艦からの反応を確認し、これに対して音響通信を試みたが、既存の認識信号とは異なるものであった。この信号を「敵が味方のふりをして送ったいい加減な信号」と判断したリチャード・M・ローウェルは、2回目のヘッジホッグ攻撃を行った。この攻撃の後、水中で4回から5回の爆発が生じ、残骸が浮上した。 一連の攻撃後、シーウルフからの報告が途絶えたことを受けて第7艦隊が調査に乗り出し、のちにリチャード・M・ローウェルのハリー・アラン・バーナード・ジュニア艦長は査問委員会にかけられた。「攻撃精神が旺盛だった」という理由でシロとなったものの、第77・1・2任務隊からは外された。しかし、部隊から外された事は吉と出て、リチャード・M・ローウェルは10月25日のレイテ沖海戦で栗田健男中将率いる日本艦隊の砲撃に晒される事はなかった。シーウルフは62名の士官、兵員および17名の陸軍兵の全員が失われた。シーウルフは太平洋戦争においてアメリカ海軍が失った34隻目の潜水艦であり、友軍の誤爆によって失われた2隻目の潜水艦であった(1隻目はカリブ海で失われたドラド (USS Dorado, SS-248))。なお、シーウルフの意外な結末を間接的に作り出したシェルトンは、一度は別の部隊から駆けつけた駆逐艦ラング (USS Lang, DD-399) らによって曳航が試みられたが浸水がひどくなり21時45分に転覆し、ラングの砲撃で処分された。 シーウルフは第二次世界大戦の戦功で13個の従軍星章を受章した。戦後、JANAC(英語版)の調査によると、シーウルフの確認されたトン数別戦果(71,609トン)は14位にランクされ、隻数別戦果(18隻)他の艦(ラッシャー、トリガー)と並んで7位に記録された。 シーウルフとその乗組員の貢献ぶりは、テキサス州ガルベストン北部に位置するペリカン島(英語版)のシーウルフ・パーク(英語版)で称えられている。
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