シュトイベン男爵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/15 04:43 UTC 版)
詳細は「フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン」を参照 シュトイベン男爵はかってプロイセン王フリードリヒ大王の参謀本部の一員であった。プロイセン陸軍を離れてから仕事がなく、自分の軍隊経験を愛国者の為に生かそうと志願してきた。フランスを経て1778年2月23日にバレーフォージに到着した時、ベンジャミン・フランクリンの紹介状を携えていた。ワシントンはこのプロイセン軍人に大きな期待を抱き、即座に監察官に任命して有効な訓練計画を立て実行に移す任務を割り当てた。 多くの障害があって成功を難しくしていた。大陸軍には標準化された訓練指導書が無かったうえにシュトイベンはほとんど英語を話せなかった。シュトイベンは挫けずに草案をフランス語で書いた。彼の副官が遅くまで起きて英語に翻訳した。翻訳された指導書は複製を作られ、各連隊や中隊に配られ、次の日には訓練に用いられた。 シュトイベンは兵士に直接働きかけることで大陸軍士官の伝統を破り衝撃を与えた。ある士官がシュトイベンについて書いている「彼の命令にある特有の品の良さが一団の兵士を鬼軍曹のように服従させた」。明け方から日暮れまで、シュトイベンの親しみのある声がキャンプ中に聞こえ、行進する兵士の音と命令の叫び声があった。間もなく、中隊、連隊さらに師団が形良く横隊から縦隊へ、縦隊から横隊へと動くようになり、正確にマスケット銃を操作し、銃剣による訓練された攻撃で想像上の的「赤服」(イギリス軍の制服)を戦場から排除できるようになった。 1778年5月6日、大陸軍がフランスの同盟と参戦を祝って閲兵式を行ったとき、シュトイベンはその日の行進をまとめたことで表彰された。その日の堂々とした行進は大陸軍の晴れ姿となった。大砲から祝砲が放たれた。続いて数千のマスケット銃を持ち2列に並んだ歩兵が順序良く次々に連続射撃を行って祝砲とした。あたり一帯に歓声がこだました。同盟の日に軍隊が見せた見事に訓練された行軍と外観も立派であったことは、イギリス軍を破るために統制の取れた有能な戦闘集団への変革ができたことを示していた。ワシントンは、シュトイベンの助けで大陸軍を軍隊として造り上げた。同盟フランス軍とともに新たな戦争の局面に進んでいくことになった。
※この「シュトイベン男爵」の解説は、「バレーフォージ」の解説の一部です。
「シュトイベン男爵」を含む「バレーフォージ」の記事については、「バレーフォージ」の概要を参照ください。
- シュトイベン男爵のページへのリンク