シャー・ルフとウルグ・ベク父子の時代
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「ティムール朝」の記事における「シャー・ルフとウルグ・ベク父子の時代」の解説
ティムールは生前から、新たに征服した地方は自身の王子たちを知事としその支配を委ねていたため、ティムールの死後、各地に分封されて勢力を蓄えていた王子たちの間で後継者を巡る争いが起った。ティムールは自身に先立って死んだ王子ジャハーンギールの子ピール・ムハンマド・ジャハーンギールを後継者に指名していたが、ピール・ムハンマドは諸王子の中では力が弱く、権力を掌握することができなかった。かわって三男ミーラーン・シャーの子でタシュケント知事のハリール・スルタンが首都サマルカンドを奪い、ティムールの後継者として即位する。しかし、腹心の部下をもっていなかったハリールは、寵姫シャーディ・ムルク(英: Shad Mulk)の政治介入を許して首都での支持を失うと、ホラーサーン地方の知事でホラーサーン駐留の軍団を統御することに成功したティムールの四男シャー・ルフに倒された。 1409年にサマルカンドを征服、ティムール朝の3代君主となったシャー・ルフは、サマルカンドの支配は自身の長男ウルグ・ベクに任せてホラーサーンに帰り、ホラーサーンの主要都市のひとつヘラート(現アフガニスタン西部)を本拠地としてティムール朝の再統一に乗り出した。シャー・ルフは自身の子飼いの部将たちを将軍に登用して権力を固め、王朝発祥の地である中央アジアの遊牧民の軍事力を背景に地方で割拠する三人の兄の子孫たちから次第に権力を奪っていった。40年近く続いたシャー・ルフの治世には明との外交が樹立されて商業活動が振興し、国際商業とオアシスの豊かな農業生産に支えられた繁栄を背景に中央アジアではイスラム文化が大いに発展した。1415年、1422年、1431年頃の3度にわたり明の永楽帝の命を受けた鄭和がホルムズを訪れている。 しかし、西方辺境の東アナトリアからイランの西部ではティムールに打倒されたモンゴル貴族に代わってトゥルクマーン遊牧民の活動が活発化し、黒羊朝の英主カラ・ユースフ(英語版)に率いられた彼らの手によってアゼルバイジャン地方がティムール朝から失われた。1447年、シャー・ルフが没すると再び諸王子たちが各地で自立して王位を争い始め、ティムール朝の支配は再び揺らぐ。シャー・ルフが死んだ後、その長男でサマルカンドを支配していたウルグ・ベクが正統な後継者として4代君主に即位するが、まもなく1449年に自らの長男アブドゥッラティーフの手によって殺害されてしまった。翌年にはアブドゥッラティーフも暗殺されてシャー・ルフ家からは実力者がいなくなり、混乱が続く。この間に黒羊朝が急速に勢力を広げ、イランの西部から東部まで進出してホラーサーンの主邑ヘラートまで占領していた。
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