シャルマネセル3世からアダド・ニラリ3世まで(前859年~前783年)
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「新アッシリア帝国」の記事における「シャルマネセル3世からアダド・ニラリ3世まで(前859年~前783年)」の解説
アッシュル・ナツィルパルの息子、シャルマネセル3世(紀元前859年~824年)は35年の長きにわたって統治したが、その間、首都はさながら軍事キャンプのようなものとなった。毎年、アッシリア軍は遠征を繰り返した。バビロンを占領し、バビロニアはアッシリアの属国へと成り下がった。シャルマネセル3世はウラルトゥと戦い、ダマスカスのハダドエゼル率いるアラム連合に対して軍を進めた。この連合にはイスラエルの王アハブも参加しており、紀元前853年のカルカルの戦いにおいて、シャルマネセルが「敵を征服した」と記録しているにもかかわらず、実際には戦いは膠着し、アッシリア軍はすぐに撤退した。 シャルマネセル3世は新ヒッタイト国の都市カルケミシュを紀元前849年に奪った。そして紀元前842年、軍をダマスカスの王ハザエルに対して進め、その都市を包囲し、貢納を強いたが、占領はしなかった。紀元前841年、彼はイスラエルのイエフやフェニキアの都市ティルスとシドンから貢ぎ物を受け取った。カルフで発見された、彼の黒色オベリスクには、彼の治世中の多くの軍事的功績が記録されている。 シャルマネセル3世の最後の4年間は、彼の最も年上の息子アッシュル・ナディン・アプルによる反乱に悩まされた。この反乱は、アッシリア帝国にとって致命的なものになりかけた。アッシュル、アルベラ、アラプハ(キルクーク)を含む27の都市が王位僭称者に加わった。この反乱の矛先は、直接に王に向けられたものではなく、むしろダヤン・アッシュルなど不相応な権力を持った州知事に対して向けられた。反乱は、困難を伴いながらも、シャルマネセル3世の2番目の息子、シャムシ・アダド5世により鎮圧された。紀元前824年にシャルマネセル3世が死ぬと、シャムシ・アダド5世が跡を継いでアッシリア王になった[要出典]。 長く辛い内戦は、南のバビロニア、北と東のメディア、マンナエ、ペルシア、そして西のアラムと新ヒッタイトがアッシリアの支配から逃れることを許した。シャムシ・アダド5世の残りの治世は、これらの国々に対する支配を取り戻すことに費やされた。この期間、ウラルトゥは、この地域における自らの影響力を回復する好機を逃さなかった。これらの出来事の結果として、シャムシ・アダド5世の治世中は、アッシリアが領土をそれ以上拡大することはなかった。紀元前811年にシャムシ・アダド5世の子、アダド・ニラリ3世が王位を継いだとき、彼はまだ少年だった。このため、紀元前806年までの5年間、彼の母である女王サンムラマート(セミラミスとしても書かれた)が彼を助け、摂政として統治した。この女王に関して数多くの伝説があるにもかかわらず、当時のアッシリアの記録においては彼女に関する記述はほとんど存在しない。 紀元前806年、アダド・ニラリ3世は権力を握った。彼はレバント地方へ侵攻し、アラム、フェニキア、ペリシテ、イスラエル、新ヒッタイト、エドムを従わせた。彼はダマスカスに入り、その王ベン・ハダド3世に貢納を強いた。次いで彼はイランに向かい、ペルシア、メディア、マンナエを従わせ、カスピ海沿岸にまでも到達した。彼の次の目標はカルデアとメソポタミア南部のスーツ族(Sutu)であり、これも征服して属国とした。
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