シャルマネセル3世のカルフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 16:37 UTC 版)
「ニムルド」の記事における「シャルマネセル3世のカルフ」の解説
アッシュールナツィルパル2世の息子シャルマネセル3世もカルフを首都とし、35年間の治世のうち31年をアッシリア拡大のための戦争で過ごした。シリア・パレスチナの国家連合とオロンテス川河畔で戦った後、このように吹聴する碑文を残した。 わたしは戦士たちのうち14,000人を剣で斬り殺した。アダドのように、わたしは彼らの上に破壊の雨を降り注がせた。わたしは彼らの死骸をひろくばらまき、荒野を覆い尽くさせた。武器で、わたしは血の流れを谷間に流れさせた。彼らの死骸が倒れるには平野はあまりに狭すぎた。広い地方に彼らの死骸を埋めさせた。彼らの死骸を橋にしてわたしはアラントゥ(オロンテス川)を渡った。 シャルマネセル3世はカルフに、父の宮殿より大きな宮殿を築かせている。大きさは2倍で、面積は12エーカー(49,000平方m)あり、部屋数は200を超えていた。 しかし紀元前828年、息子アッシュール・ダイン・アピルが反乱を起こし、ニネヴェやアッシュールも含む27の都市が反乱に加わった。シャルマネセル3世はカルフをかろうじて維持したにとどまり、反乱はシャルマネセル3世の死後の紀元前821年まで続いた。
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