システムの起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/09/04 16:39 UTC 版)
「公有地測量システム」の記事における「システムの起源」の解説
合衆国独立時の13植民地(そこから派生したメイン州、バーモント州、テネシー州、ケンタッキー州、ウエストバージニア州を含む)では、イギリスから引き継いだ土地境界(metes and bounds)システムを使用していた。このシステムでは現地にある標石(marker)や人手による境界に基づいて境界線が定義されたが、大抵は地形図(topography)に基づいていた。このシステムを使った説明は、例えば次のようなものであった:「マディー川とインディアン川が合流する地点から1マイル(1.6キロメートル)上流のマディー川北岸の地点から北へ400ヤード進み、次に大きな岩まで北西へ進み、その後大きなオークの木まで西へ、さらにマディー川まで南へ、最後にマディー川の中央を下って開始地点まで戻る。」 土地境界システムは、特にニューイングランド地方では、町の土地図(plat)によって補われた。このシステムでは通常4〜6マイル(6〜10キロメートル)四方の矩形の町が定義されたが、その町の中では全住民の所有地を把握するために1枚の地図あるいは土地図が使用されていた。 しかし土地境界システムには、次のような問題点があった。 不規則な形状の土地には複雑な説明が必要。 時間の経過に伴い木が枯れたり侵食で川の流れが変化するなど、説明に不都合が発生。 「未開の地」として投資家に売られた、西部開拓で新しく測量された大規模な土地には不向き。 加えて、記録を取る人々が足を踏み入れるまでは利用できない、という問題もあった。 1783年のパリ条約でアメリカ合衆国の独立が承認されると、イギリスは五大湖の南・ミシシッピ川の西の土地をアメリカ領とすることもまた承認した。大陸会議は新しい国土の測量・販売・定住を管理するため、1785年に公有地条例を、1787年に北西部条例を相次いで可決した。13植民地は、その領土の西側部分を連邦政府に寄付し、新しい州に土地が提供された。それらの土地には、北西部領土、ケンタッキー州、テネシー州、アラバマ州、そしてミシシッピ州が含まれる。土地を最も多く手放したのはバージニア州だったが、同州は当初、北西部領土のほとんどとケンタッキー州の領有権を主張していた。西部の土地の中には、バージニア、ペンシルベニア、コネチカットの3州によって要求された北西部領土のように、複数の州が領有権を主張した土地もあった。これら3州は、太平洋に至る土地でも領有権の主張を続けた。
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