ザルツァッハ川左岸地域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 06:36 UTC 版)
「ザルツブルク市街の歴史地区」の記事における「ザルツァッハ川左岸地域」の解説
「ザルツブルク#歴史」を参照 古来、塩の交易で栄えてきたザルツブルクであるが、都市としての歴史は、696年、ライン・フランケン地方の司教であった聖ルーペルト(ドイツ語版)が亡命し、バイエルンのテオド大公が彼のために西はキームゼーから南はザルツァッハ川上流の土地を寄進、司教区管轄地とすることを認めて、彼がメンヒスベルク山麓に聖ペーター僧院教会を創設したことにさかのぼる。 以後、8世紀には最初の大聖堂が大修道院司祭聖ヴィルギリウス(英語版)によって創設され、9世紀には司教座が置かれて「司教都市」となり、12世紀中ごろまでには小規模ながら市民都市としての姿ができあがった。13世紀後半、ザルツブルクは大司教の支配する一侯国となり、商品中継地となっていた市民の多くはそのことを嫌ったという。 1481年、神聖ローマ帝国直属の都市となって以来、大司教が世俗の領主を兼ねて宗教と政治をともに支配する絶大な権力者となり、1511年、ザルツブルクに帝国自由都市の地位を獲得させようという市民層の努力は封建領主でもあった大司教の手によって挫折させられた。その後、大司教ヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウ(ドイツ語版)(在位1587年-1612年)とマルクス・シティクス・フォン・ホーエネムス(ドイツ語版)によって都市のバロック化がはじまっている。 現在、ツェントラル(旧市街)と呼ばれるザルツァッハ川左岸地域には、大聖堂、ホーエンザルツブルク城、聖ペーター僧院教会、レジデンツなどの歴史的建造物があり、市壁や中世都市の構造をよく残した数々の小路がある。モーツァルトの生家やミヒャエル・ハイドンの墓など音楽家にまつわる旧跡も多い。
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