サヴォイアからヴェネツィアまでとは? わかりやすく解説

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サヴォイアからヴェネツィアまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 14:36 UTC 版)

サヴォイア十字軍」の記事における「サヴォイアからヴェネツィアまで」の解説

1366年1月3日ル・ブルジェデュ=ラックフランス語版)で出立準備をしていたアメデーオ6世は、妻ボンヌ・ド・ブルボンフランス語版)に、7人、あるいは少なくとも2人家臣団による助言を常に受けながら、夫の不在中の摂政命じた。恐らく遅延への抗議か、あるいは聖地ではない目的地提案されたためか、ウルバヌス6世1月6日自身1364年4月1日発効した勅書取り消し十字軍創立原因消滅した。にもかかわらずアメデーオ6世はアヴィニョン抗議赴いて表面上は教皇から自身遠征対す祝福受けたものの、勅書撤回されたままだった。アメデーオ6世は viagio ultramarino (洋上航海)に対す一般税の支払い強要されたが、この税は1368年までには集まらず、海上輸送経費リヨンいくつかの銀行から10,000フローリン借金、及び家族銀の質入れ間に合わせた2月8日アメデーオ6世はヴェネツィア向けて出港した2月15日までにリーヴォリ到着し3月半ばまでは義兄弟であるミラノ僭主ガレアッツォ2世・ヴィスコンティ統治するパヴィア到着した。ここで進路変えて5月後半パヴィアに戻るまでの間、サン=ジャン=ド=モーリエンヌ訪れて自身の甥ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ息子ジャン・ガレアッツォ2世洗礼代父務めた。この時、ジャン・ガレッオの母でアメデーオ6世の姉妹であるビアンカイタリア語版)は軍資金寄贈し義兄弟のガレアッツオ2世25,000フリーリンの資金と、自身庶子チェーザレ指揮下の25人の重騎兵 (en) 、600人の傭兵野盗en)、16人の馬の世話人 (en) を貸与し後者費用最初半年間はガレアッツオ2世捻出した。エティエンヌ・ド・ラ・ボーム指揮する十字軍半数は、サン=ジャン=ド=モーリエンヌからジェノヴァ移動し待機していた船に乗り込んでヴェネツィア向かったアメデーオ6世指揮下の残り十字軍は、6月1日パドヴァ向かい、同市を支配するカッラレシ家(イタリア語版)からヴェネツィアで使うための宮殿申し出受けた6月8日アメデーオ6世とその主力軍はヴェネツィア到着し、同市の住民から十字軍聖地に向かわなかったことを知らされ、テネドス(トルコ語版)のジェノヴァからの奪還という条件付きで、船と兵士を含むより多く援助申し出受けた履行されず)。十字軍乗せた船は6月21日頃に出立した

※この「サヴォイアからヴェネツィアまで」の解説は、「サヴォイア十字軍」の解説の一部です。
「サヴォイアからヴェネツィアまで」を含む「サヴォイア十字軍」の記事については、「サヴォイア十字軍」の概要を参照ください。

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