サヴォイアからヴェネツィアまで
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「サヴォイア十字軍」の記事における「サヴォイアからヴェネツィアまで」の解説
1366年1月3日、ル・ブルジェ=デュ=ラック(フランス語版)で出立の準備をしていたアメデーオ6世は、妻ボンヌ・ド・ブルボン(フランス語版)に、7人、あるいは少なくとも2人の家臣団による助言を常に受けながら、夫の不在中の摂政を命じた。恐らく遅延への抗議か、あるいは聖地ではない目的地を提案されたためか、ウルバヌス6世は1月6日に自身が1364年4月1日に発効した勅書を取り消し、十字軍創立の原因は消滅した。にもかかわらず、アメデーオ6世はアヴィニョンへ抗議に赴いて、表面上は教皇から自身の遠征に対する祝福を受けたものの、勅書は撤回されたままだった。アメデーオ6世は viagio ultramarino (洋上航海)に対する一般税の支払いを強要されたが、この税は1368年までには集まらず、海上輸送の経費はリヨンのいくつかの銀行から10,000フローリンの借金、及び家族銀の質入れで間に合わせた。2月8日にアメデーオ6世はヴェネツィアに向けて出港した 。 2月15日までにリーヴォリに到着し、3月半ばまでは義兄弟であるミラノの僭主ガレアッツォ2世・ヴィスコンティが統治するパヴィアに到着した。ここで進路を変えて5月後半にパヴィアに戻るまでの間、サン=ジャン=ド=モーリエンヌを訪れて、自身の甥ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの息子ジャン・ガレアッツォ2世の洗礼の代父を務めた。この時、ジャン・ガレッオの母でアメデーオ6世の姉妹であるビアンカ(イタリア語版)は軍資金を寄贈し、義兄弟のガレアッツオ2世は25,000フリーリンの資金と、自身の庶子チェーザレ指揮下の25人の重騎兵 (en) 、600人の傭兵(野盗、en)、16人の馬の世話人 (en) を貸与し、後者の費用は最初の半年間はガレアッツオ2世が捻出した。エティエンヌ・ド・ラ・ボーム指揮する十字軍の半数は、サン=ジャン=ド=モーリエンヌからジェノヴァに移動し、待機していた船に乗り込んでヴェネツィアに向かった。 アメデーオ6世指揮下の残りの十字軍は、6月1日にパドヴァに向かい、同市を支配するカッラレシ家(イタリア語版)からヴェネツィアで使うための宮殿の申し出を受けた。6月8日にアメデーオ6世とその主力軍はヴェネツィアに到着し、同市の住民から十字軍は聖地に向かわなかったことを知らされ、テネドス(トルコ語版)のジェノヴァからの奪還という条件付きで、船と兵士を含むより多くの援助の申し出を受けた(履行されず)。十字軍を乗せた船は6月21日頃に出立した 。
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