サンフランシスコでの活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/20 03:13 UTC 版)
「フレデリック・クームス」の記事における「サンフランシスコでの活動」の解説
クームスは1850年代の西海岸で写真家として活躍した。1863年より前の時点でサンフランシスコに現れた彼はジョージ・ワシントンを名乗り始め、骨相学ビジネスを社交界にも展開し人気を博した。普段彼は「フレディ・クームス教授」として知られ、また他者からもジョージ・ワシントンに似ているという評が多数挙げられた。次第にクームスは自身がかつての大統領その人であることを確信するようになり、それらしい出で立ちをするようになった。 クームスは大陸軍のなめした鹿革の制服を着て、マーティン・ホートンサルーンに拠点を置いた。ここで彼は「アメリカ独立戦争」を指揮するための戦略を研究したとされる。また彼はある冬の間、友人の説得でバレーフォージの戦いが終結したことに納得がいくまで自ら食を制限して飢えと戦った。またこのオフィスから、クームスは大統領として議会に数々の「布告」を送った。これはジョシュア・ノートンが多数の「勅令」を発したのに類似している。 日中は髪粉をつけたかつらを付け、三角帽をかぶり、「偉大な結婚志願者」と書いた旗を持ってモントゴメリー通りにいるのが常であった。ジョージ・ワシントン2世、ノートン1世、野良犬のバマーとラザルスといった面々は、サンフランシスコの新聞を賑わせる存在となった。彼らはエドワード・ジャンプの2つの風刺画にそろって登場している。『モントゴメリー通りの行進』 ではクームスは絵の中央で「And Still They Go Marching On」と書かれた旗を持っている。一方『ラザルスの葬儀』では、教皇の姿で儀式を行うノートン1世の隣で墓穴を掘る人物として描かれている。 クームスは低身長で髪が薄く太った人物で、尊大で虚栄心が強く、それでいて自身では女性に人気があると思っていた。そのうえで彼は、この女性人気がジョシュア・ノートンとの諍いの発端であると信じていた。ノートンはモントゴメリー通りにあったクームスのポスターを無断で撤去し、クームスはこれを警察に訴えた。しかし犯罪に当たらないということで相手にされなかったためクームスは民事訴訟を企て、その資金集めのためにアルタ・カリフォルニア紙にインタビュー記事を提供した。この記事の中で、ノートンがそのような挙に出た理由を問われたクームスは「私は私への女性人気を嫉妬されているのだ」と述べ、この記事は数日間サンフランシスコ市民の話題をさらった。アルタ・カリフォルニア紙はこの記事に添えて、クームスとノートンをあざけり、クームスの目には「狂気の光」が見えたという評を載せていた。2人はそれぞれ自身が正気であると信じていたため記事の撤回を要求し、またノートンは警察の長官に対し以下のような命令を出した。 ... 第二のワシントンを僭称するクームス教授なる人物を、騒乱罪で逮捕せよ。そして直ちに、彼自身のため、公衆のために、少なくとも30日間州の精神病院に収監せよ。 — 合衆国皇帝ノートン1世
※この「サンフランシスコでの活動」の解説は、「フレデリック・クームス」の解説の一部です。
「サンフランシスコでの活動」を含む「フレデリック・クームス」の記事については、「フレデリック・クームス」の概要を参照ください。
- サンフランシスコでの活動のページへのリンク