サンジャン砦への奇襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 15:52 UTC 版)
「タイコンデロガの攻略」の記事における「サンジャン砦への奇襲」の解説
セス・ワーナーは分遣隊を船に乗せて、タイコンデロガの近くのクラウン・ポイント砦に向かった。ここの駐屯兵は9人しかいなかった。多くの文献が、この攻略は5月10日に行われたと記載している。これは、アーノルドが、マサチューセッツ安全委員会に、5月11日に送った手紙によるもので、この攻略のため船を出したが、逆風に悩まされたと書いている。ところが、ワーナーの、「クラウンポイント本部」からの、5月12日付の手紙では、前日の11日に「砦を占領した」とある。ワーナーの記憶では、10日に一度失敗し、翌日に成功したということなのだろう。 別の少数部隊が、ジョージ湖のジョージ砦に送られた。ここの駐屯兵はたった2人だった。 アーノルドの士官たちが徴集した兵が到着し始めた。フィリップ・スキンのスクーナー「キャスリーン」と、スケネスボロの何隻かの平底船(バトー)を強奪した少し後のことだった。 アーノルドはスクーナーに「USSリバティ1775/2」という新しい名前を付けた。捕虜たちが、シャンプレン湖の1隻きりのイギリスの軍艦が、湖の北にあるリシュリュー川の、サンジャン砦にいた艦だと話していた。アーノルドは、タイコンデロガの攻略の知らせが、サンジャンに届いたのかどうかはわからなかったが、この船に奇襲をかけて奪おうとした。「リバティ」に大砲を着け、50人の兵とともに5月14日に出港した。 アレンは、アーノルドを、砦攻略の英雄にしたくないため、平底船で、アーノルドの船を追いかけた。しかし、湖を航行する点では、アーノルドの小艦隊のほうが有利で、アレンの兵が乗った船を引き離した。5月17日までにアーノルド隊は湖の北岸に着いた。情報を得るために、サンジャン砦に兵を一人偵察に送り込んだ。兵はその日の遅くに戻って来て、イギリス軍はタイコンデロガとクラウン・ポイントが陥落したことを知っており、部隊はどうやらサンジャンに向けて動き出していると報告した。アーノルドは早急に行動を起こすことにした。 一晩中船をこいだ後、アーノルドと兵士のうち35人は砦の近くで船を止めた。短時間で砦の様子を見終わったあと、砦の駐屯兵を脅かし、そこにあった物資と、70トンのスループであるイギリスの軍艦ロイヤルジョージ(en:HMS Royal George (1776))を奪った。 駐屯兵から、中隊の一部がシャンブリーからの帰路に着いていると警告され、一行はより価値のある物資と大砲とを、ジョージに積み込んだ。このジョージは、エンタープライズをアーノルドが改名したものだった。持って行けない船は沈め、より規模が増したアーノルド艦隊が、シャンプラン湖へ戻って行った。 アーノルドたちのこの行為は、イギリスの退役軍人で、砦の近くに住んでいるモーゼス・ヘイズンに監視されており、ヘイズンは5月20日に、馬を走らせてモントリオールに行き、地元の軍の指揮官にこのことを告げ、さらにケベックにも行って、やはり20日に、カールトン総督にこのことを報告した。この報告にこたえ、チャールズ・プレストン少佐と140人の兵が、ただちにモントリオールからサンジャンに派遣された。 湖に出て15マイル(約24キロ)行ったところで、アーノルドの艦隊はアレンたちに出くわした。彼らはまだ北を目指していた。祝砲を交わしたのち、アーノルドは食糧を開封して、アレンの兵たちに食事をさせた。無甲板船を、飲まず食わずで100マイル(約161キロ)こいで来たのだった。アレンは、自分たちがサンジャン砦を攻略できると信じて、北へと船を進め続けた。アーノルドは南を目指していた。 アレンが砦に着いたのは5月19日で、その日、支持者のモントリオールの商人から、イギリス軍が近づいているから気をつけろと忠告されていた。その商人は、馬でイギリス軍を追い抜いて来たのであった。 アレンは、モントリオール市民あての便りをその商人にことづけ、21日にタイコンデロガに戻るべく、サンジャンを離れた所へイギリスの艦隊が到着した。 イギリス軍から必死で逃れたが、3人が遅れ、1人は捕虜となった。しかし他の2人は陸路で南を目指した。
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