ゲームの発売延期・中止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:08 UTC 版)
「NINTENDO64」の記事における「ゲームの発売延期・中止」の解説
ゲーム機に3Dが導入されたことに伴いソフトの開発環境が変化し開発人員も増大した。開発言語が従来のアセンブリ言語からC言語へ変わり、開発環境には、SGIのグラフィックワークステーション、SGI Onyxが使用された。後にSGI Indyも使用された。日本では、安価なMicrosoft Windowsベースの京都マイクロコンピュータ製インサーキット・エミュレータ「PARTNER-N64」も用意された。 ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)はソフトの開発機材を安価でソフトメーカーに提供し、開発環境の負担を軽減することにより、サードパーティーを数多く取り込んでいた。これは元々ソニーがスーパーファミコンの開発機材を作っていたりなどしたためノウハウがあったことによる。しかし当時の任天堂は従来通りソフト毎に開発者が独自にプログラムを組んでいた。また当初はセカンドパーティの増強を考え、マネージメント会社「マリーガル」を設立して対処していた。 開発環境の変化は任天堂自身にも影響を与えた。岩田は「ハードの能力と自由度が上がったことで、逆にゲームにおけるハードの限界が明確でなくなってしまって、プログラマーにとってはどこまでハードの性能を出せるのかがわかりにくくなってしまった」「“オプティマイズ”や“チューニング”といった(中略)ゲーム制作の本質とは違う仕事が爆発的に増え、つくり手は思ったとおりにゲーム制作ができなくなってしまった」と述べている。そのため、開発が長期化してしまう状態になっていた。ほぼ時期を同じくしてNINTENDO64の発売直後に出るはずだった周辺機器『64DD』も暗礁に乗り上げる。当初はファミリーコンピュータ ディスクシステムと同様のハードになるはずだったが、様々な構想が消えては生まれる状態が起き、そのたびに開発延期が繰り返された。最終的に「製品群構想」となったが、発売が遅れ過ぎたことなどが響き、ほとんど定着しなかった。 こうして、開発の困難さからNINTENDO64は発売初期からすでに参入メーカー不足によりソフト不足に見舞われる。具体的にはローンチタイトル3作品の発売の後3ヵ月以上ソフトが1つも発売されなかった。任天堂は1996年内にセカンドパーティ製のものも含め、16本の自社ソフトを発売する計画だったが、ソフト開発の遅延や64DDの発売延期などにより4本しか発売できず、後に発売できたのも半分ほどで、残りは発売中止となった。また発売当初のキラーソフトの一つ『ゼルダの伝説 時のオカリナ』の発売が大きく延期したこともハードの普及を妨げた。
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