ゲルマニアでの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 09:34 UTC 版)
アウグストゥスが14年に死去した後、ゲルマニクスは元老院の命によりゲルマニアへ赴いた。その直後、兵士から人気のなかったティベリウスが帝位を継いだという知らせを聞いてゲルマニアで反乱が勃発、ティベリウスへの忠誠を拒否し、ゲルマニクスを帝位に擁立しようと試みる。しかし彼はこれを拒否、あくまでもアウグストゥスの遺志を尊重して反乱を沈静化、自らは司令官の地位に留まった。この時の態度で彼は軍団の忠誠と人気を勝ち取り、勢いに乗ってゲルマニアに侵攻、ルール川上流のゲルマン部族マルシ族(英語版)を殲滅した。 次に、トイトブルクの戦い(紀元9年)でローマに大敗を与えたアルミニウスを核とするゲルマン部族の連帯を切り崩す作戦を展開する。この作戦で15年にアルミニウスの妻を捕虜にするなど戦功も挙げた。しかしゲルマン人を敗走させて土地を荒し回ったとはいえ、森の奥深くに逃げ隠れるゲルマン人に対しては決定的な打撃は与えられなかった。 その後、トイトブルクの戦いの跡地を訪れ、放置されていたローマ兵の遺体を弔う。そしてアルミニウス率いるケルスキ族(英語版)に大攻勢を仕掛ける。しかしローマの騎兵部隊はアルミニウスの罠に嵌り殲滅され、ローマ兵士の半分は戦闘で、もう半分が嵐で大打撃を受け、それ以上の作戦展開が無理となり撤退した。 ティベリウスの考えでは兵を進めるのには懐疑的だったが、翌16年にゲルマニクスは大軍を率いて再度ゲルマニアに侵攻する。犠牲を出しながらヴェーザー川を渡航、その先でアルミニウスの軍と激突する。両軍ともに消耗が激しく、アルミニウスは手傷を負いながらもかろうじて軍を撤退させる事に成功、ゲルマニクスは敵の本拠地まで兵を進める事はできなかった。さらにハノーファー近郊で再び相まみえ、互いに損傷を出しながらも決着はつかなかった。そして撤退の際に今度は北海で軍の多数が遭難、友軍が手酷い被害を受ける。しかしながらゲルマン人に奪われた3つの軍旗のうち2つを取りかえすという快挙を成し遂げた。
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