クールラント橋頭堡の戦闘
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「クールラント・ポケット」の記事における「クールラント橋頭堡の戦闘」の解説
10月9日、メーメル近郊でソビエト赤軍はドイツ第3装甲軍を撃破しバルト海に至った。そのため、北方軍集団と中央軍集団は分断された。ドイツ国防軍陸軍参謀総長ハインツ・グデーリアンは即刻、軍を撤収させ、ソ連軍が迫る中央ヨーロッパに配備しなおすべきだと主張した。しかし、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはこれを拒絶、クールラントとエストニアのヒーウマー島、サーレマー島を保持するよう命令を下し、バルト海沿岸にあるドイツ海軍の潜水艦基地を保護することを重要視した。ヒトラーはまだ戦争に勝利する可能性があると信じており、5月に1番艦が完成した新型UボートXXI型で大西洋での戦いに勝利し、西部戦線の連合軍の補給を弱らせ、撃退しようと考えていた。この提案では、攻撃の中心をクールラント軍集団におき、東部戦線に戦力を集中させるものだった。ヒトラーが軍の撤退を拒否したことにより、クールラントで包囲された軍は再編成され、およそ200,000の将兵が25個師団に再編成、第16軍、第18軍が創設された。(ただし、一部の情報では、31個師団と1個旅団という説もある。)包囲されたとはいえ、彼らはいまだソビエト赤軍の北方側面における脅威であった。 1944年10月10日から1945年4月4日までの間に、大規模な戦闘は6回発生している。 メーメル攻略作戦によるバルト海沿岸攻略作戦でクールラント・ポケットが形成された事が1回目、ソビエト赤軍によるバルト海攻略作戦(1944年9月14日~11月24日)が2回目となる。 1944年10月15日~22日の間、15日、ソビエト赤軍は重砲による準備砲撃後の午前10時、リガ攻略作戦を開始、ドイツ第15軍に攻撃を開始した。10月11日、ヒトラーは軍集団司令官フェルディナント・シェルナー上級大将にリガからの撤退を許可、リガは13日にソビエト赤軍第3バルト方面軍に占領された。その後、戦線は北方軍集団がクールラント半島に孤立する形で安定した。 1944年10月27日~11月25日、ソビエト赤軍がスクルンダ(クルディガ州、クルゼメとも)-サルドゥス間を含む戦線で52個師団による同時攻撃で正面突破を謀った。 ソビエト赤軍第1バルト方面軍(南部地区)、第2バルト方面軍(北部地区)はクールラント半島での包囲を開始、そこで激しい攻防戦が生じた。ラトビアで行われたこの戦闘について、当のラトビア人も無関係ではあり得ない。ソビエト赤軍第2バルト方面軍の第22軍に所属するラトビア第130狙撃兵軍団にはラトビア人で編制された2個狙撃兵師団が所属しており、それに対してドイツ軍にもラトビア人で構成された第19SS武装擲弾兵師団が存在していた。 1944年12月23日-1944年12月31日まで 1945年1月23日-1945年2月3日まで 1945年2月12日-1945年2月19日まで 1945年3月17日-1945年4月4日まで 1945年1月15日、北方軍集団はロタール・レンデュリック上級大将の元、クールラント軍集団と改名された。欧州大戦が終了するまで、クールラント軍集団(第19SS武装擲弾兵師団を含む)はクールランド半島で包囲されたままであった。
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