クワズールーの指導者
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「マンゴスツ・ブテレジ」の記事における「クワズールーの指導者」の解説
ブテレジは1953年に大部族であるブテレジ族の首長を継承し、その後現在までその地位にある。彼は1963年から1964年にかけてロルクズ・ドリフトの戦いを描いたマイケル・ケインとスタンリー・ベイカー主演の映画「ズール戦争」のアドバイザーを務めた。また彼自身も映画に出演し、彼の高祖父であるセテワヨ・カムパンデを演じた。ズールー人内の大部族の族長であり、またズールー王グッドウィル・ズワリティニ・カベクズールーの叔父にあたることからブテレジはズールー人の中で頭角を現していき、1970年にはクワズールー自治区の指導者に任命され、1976年にはクワズールー・ホームランドの首相に就任した。1970年代に起こった黒人意識運動は、ブテレジの強い反共主義のため、彼をアパルトヘイトの協力者と見なした。一方で、ブテレジはネルソン・マンデラが刑務所から釈放されアフリカ民族会議の活動禁止が解除されるまで、一貫してクワズールーの独立とそれに伴う政治的取引を拒絶し続けた。当時南アフリカ政府はホームランドの「独立」を強力に推進していたが、ブテレジはズールー人は南アフリカ市民であるとしてこの動きを拒絶した。 クワズールーの内政面においては、ブテレジは中央政府から多額の補助金を獲得することに力を注いだ。この補助金は主に老齢年金の形を取っており、ブテレジはこの年金の分配を差配することでクワズールー内における自らの政治的影響力をより強めていった。一方で、1974年から1975年にかけてのクワズールー政府予算は自己予算がわずか19.7%にすぎず、80%以上が南アフリカからの補助金によって占められるなど、この政策は南アフリカ中央政府への過度の財政依存を招いた。 教育方面においては、彼は1970年代後半から1980年代初期にかけて、教師養成および看護大学の設立に尽力した。また、彼は友人のハリー・オッペンハイマーに依頼して、ダーバンの南にあるウムラジに、マンゴスツ技術大学を設立させた。1993年に、彼はナタール議会において行った演説において、世界最長のスピーチの記録を樹立した。
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