クレイ・リサーチ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 02:34 UTC 版)
「シーモア・クレイ」の記事における「クレイ・リサーチ時代」の解説
分割はかなり友好的に行われ、クレイ・リサーチが同じチペワで新たな研究所を開設したとき、ノリスは300,000ドルを立ち上げ資金として投資した。CDCの組織のように、クレイの研究開発部門はチペワ・フォールズを本拠地とし、ビジネス本部はミネアポリスに置いた。CDCと違って、製造部門もまたチペワ・フォールズにあった。 当初、新しい会社が正確には何をするべきか分からなかった。今では大企業のCDCがふたつのプロジェクトを実行できなかったというのに、新しいコンピュータを開発する方法があるとは思えなかったのである。しかし、資金調達を担当している社長が投資家を捜すためにウォール街に旅行した時に、彼はクレイの評判が非常によく知られていることを知って驚いていた。市場で苦労することなく、財界は快くクレイに新しいマシンを開発するのに十分すぎる資金を提供した。 数年の開発の後、1976年にその最初の製品が Cray-1 としてリリースされた。従来のクレイの設計と同様、Cray-1 はプロセッサ単体ではなくコンピュータ「全体」が高速となるように設計した。リリース時、資金問題で 8600 を葬った STAR-100 を含めて、Cray-1 は性能においてほとんどすべてのマシンを容易に打ち破った。同じレベルで実行することができる唯一のマシンは、ILLIAC IV であったが、これは非常に特殊なタスク以外では最大性能を発揮できない特殊なマシンである。Cray-1 は市場において大きく他を引き離した。 シリアル番号001番は1976年にロスアラモス国立研究所に「貸されて」、その夏に最初の完全なシステムが880万ドルでNCARに売られた。会社の初めの予測では、CDC時代からの同様なマシンの販売実績に基づいて1ダース程度のマシンが売れると思われたが、結局100台以上の Cray-1 が売れ、会社は大成功を収めた。 再度の成功はそんなに簡単でなかった。彼が Cray-2 に取り組む間、他のチームは4プロセッサの Cray X-MP を出荷した。それは莫大な成功を収めた。Cray-2 が6年の開発を経てついにリリースされた時、それは主として非常に高速なメモリのおかげで X-MP より若干高速なだけであったため、わずかに売れただけだった。Cray-3 プロジェクトが始まると、彼は自身が日常的な業務にあまりにも多く「煩わされていること」に再び気付いた。設計に専念するために、クレイはクレイ・リサーチ社のCEOの地位を1980年に辞して自身を独立した契約技術者の立場に置いた。彼は、NCARの近くのコロラドスプリングスにクレイ・ラボラトリーズを置き、そこで活動を再開した。 1989年、クレイは Cray-3 の開発に当たってまたも困難に直面する。Cray-2 の高速メモリを X-MP に使ったアップグレード版の開発が並行して順調に進行中であり、経営陣は再度2つのプロジェクトと限られた予算に直面した。彼らは結局より安全な方を採用し、Cray Y-MP をリリースした。
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