クリミア併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 23:20 UTC 版)
「グリゴリー・ポチョムキン」の記事における「クリミア併合」の解説
1779年、オスマン帝国とアイナリ・カヴァク条約を結んだ後、ロシア軍はクリミア・ハン国から撤退する。その翌年には反乱が勃発して親ロシアのハーンであるシャヒン(英語版)が追い出された。この為、経済的利害の関係する層をクリミア・ハン国から避難させた後、1782年、エカチェリーナ2世はポチョムキンにまたも内乱の鎮圧を命令し、ポチョムキンはクリミアに侵攻して再びシャヒンをハーンの位につけた。シャヒンは先の反乱の加担者に対する断罪を主張し、このままではいずれまた内乱が勃発すると判断したポチョムキンはペテルブルクに赴き、エカチェリーナ2世にクリミアの直接統治を進言。エカチェリーナも決断を下し、1783年4月8日、クリミア併合が宣言された。 エカチェリーナはポチョムキンを旧クリミア・ハン国地域の県知事に任命し、黒海北部沿岸およびクリミアの開発を行わせた。ポチョムキンはクリミアをロシアの膨張政策の突端とすべくセヴァストポリ要塞を築き、黒海艦隊を設立する。これに抗議したオスマン帝国との間で1787年、またも露土戦争が勃発してしまった。 そのためポチョムキンが海軍元帥と陸軍元帥を兼ね、彼の元に実際の指揮はスヴォーロフがとり、1788年、オスマン帝国側のオチャーコフ(ウクライナ語版)要塞を包囲する(オチャーコフ攻囲戦)。 この時、フランス王国と同盟関係を結んでいたスウェーデン軍がフィンランドに上陸し、ロシア帝国とスウェーデン王国は戦闘状態に突入した(フィンランド戦争)。スウェーデンは、オスマン帝国との直接の同盟関係はなかったが、露土戦争に便乗し、攻勢に出る。 オスマン帝国とスウェーデン、二方面からの敵を抱えることの不利を考慮したエカチェリーナは、スウェーデンとの停戦を決め、プロイセンとイギリスの仲介で停戦に漕ぎ着ける。 こうして一方での戦争を終わらせた後、トルコ戦線では戦いは有利に進み、スヴォーロフがイズマイルを陥落させ、1791年、ヤッシーの講和において黒海北部沿岸の完全ロシア領化に成功した。この新しくロシア帝国領に編入された地域を、エカチェリーナ2世はノヴォロシア県という行政単位とし、総督にポチョムキンを任命した。
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