クラウディオス・プトレマイオスの記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 04:43 UTC 版)
「セリカ」の記事における「クラウディオス・プトレマイオスの記述」の解説
150年のプトレマイオス図では、セリカはスキュティアのさらに東方、地図の北東の端に配置されている。また「イマウス」(パミール高原)の先に書かれていることから、クラウディオス・プトレマイオスのセリカ像は、現在の新疆にあたる地域も包含していたと思われる。 プトレマイオスによれば、セリカはスキュティア・エクストラ・イマウム・モンテム(イマオン山脈の外側のスキュティア、以降「外スキュティア」と表記)の西にある。北辺は西洋の地図の最北限トゥレ(シェトランド諸島)と同緯度圏(北緯63度)の線を境に未知の世界に接している。東は経度180度(カナリア諸島を0度とする)の線を境に未知の世界に接し、南はガンジス川と外スキュティアの境を延長した線(北緯35度)を境にシナエと接しているとする。 ヘンリー・ユールは、プトレマイオスがインド洋を内海だと誤解していたために中国の海岸線の伸び方を解釈し損ねていたとして、そのうえでプトレマイオスが本来セリカと同一であるシナエを分離して描写してしまったのだと主張している。 実際、『地理学』に付随しているプトレマイオス図では、インド洋の周囲を囲むように陸地が描かれている。プトレマイオスは、黄金半島(マレー半島に比定される)に港湾都市「カッティガラ」が存在し、そこまでアレクサンドロスという名の航海者(おそらく商人)が訪れていたと述べている。1877年、フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンは、カッティガラは当時交趾郡がおかれて中国王朝の支配下にあった現在の北ベトナム・ハノイ付近にあった都市であるという説を唱えた。しかし考古学調査が進んだ現在では、古代ローマや地中海世界の物産が多数出土しているオケオをプトレマイオスの言うカッティガラに比定するのが定説となっている。オケオではアントニヌス・ピウスやマルクス・アウレリウス・アントニヌス時代のローマ帝国の金貨が発見されており、少なくともネルウァ=アントニヌス朝時代には古代ローマの商業活動が東南アジアにまで至っていたことがうかがえる。タイやインドネシア、マレーシアでもこうした交流を裏付ける遺物が出土している。中国側の歴史書にも、現在のカンボジアやベトナム付近にあった扶南国で、大秦(ローマ)人商人が活動していたことが記録されている。こうした考古学的証拠は、166年に「安敦」(アントニヌス・ピウスもしくはマルクス・アウレリウス・アントニヌスを指すとされている)からの使節が交趾郡に到達したという中国史書の記録とも符合する。交趾郡には、その後も何度かローマからの使節が到来したという記録が中国側で残されている。
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