ガルバ裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 10:27 UTC 版)
「セルウィウス・スルピキウス・ガルバ (紀元前144年の執政官)」の記事における「ガルバ裁判」の解説
同年(紀元前150年)、ガルバはローマに戻った。翌紀元前149年には、ヒスパニアでの行動に関して訴訟が行われた。その主な理由の一つは、戦利品の多くをガルバが独り占めし、兵士たちには殆ど与えなかったことが理由と考えられる。ガルバに対する調査を実施するという提案は、前任者のセラッヌスが行った可能性があり、であれば紀元前167年のガルバとパウッルスの対立と類似している。護民官のルキウス・スクリボニウス・リボは、奴隷として売られたルシタニア人を解放し、ガルバの活動を調査する法案を提出した。このような法案が成立すれば、ガルバに対する裁判が開始されかつ有罪となる可能性は高い。このため、ガルバはこの法案に強く反対した。その後の資料では、その後にヒスパニア・打てリオル前総督の裁判の様子を詳細に記録している。 リボの演説)は、少なくとも紀元前46年まで存続していた。リウィウスはリボのガルバに対する演説のテクストを少なくとも二つ持っていた。リボは人気のある護民官であり、ルキウス・コルネリウス・ケテグスが支持していた。ガルバはケテグスに対しても反論演説を行っている。ガルバは、休戦中に彼は野営地の近くでルシア人を虐殺したことを認めているが、その理由として「ルシタニア人は人と馬を生贄にする儀式を行っていたが、これは彼らが戦争の開始前に行う儀式で、講和を破ってローマ軍を攻撃する意思があった」と述べた。民衆は当初ガルバの言葉を信じたようだった。このため、既に85歳になっていた大カトが民衆の前で反論を行った。 カトは「私は高齢で声も出ず体力もない。ここに来るだけでも大変であった。しかし、本当に、私はこのような重要な問題が議論されるとき、ここで発言するべきだと思った...」と演説を初めた。カトの演説の詳細は不明だが。何れにせよカトはガルバの残虐行為の正当性に異議を唱え、彼が言う国家のためという訴えを認めなかった。カトはガルバは単に欲に駆られたと主張した。 ガルバはまずカトに反論し、続いてガルバの政治的同盟者であるクィントゥス・フルウィウス・ノビリオルの弁護を求めた。ノビリオルはガルバの敵対者が旧来の敵意に基づいて行動していることを証明しようとしたが、成功しなかった。明らかにカトの演説が民衆のムードを劇的に変化させていた。ガルバは「有罪とされる可能性を感じ」、戦術を変えた。同情に頼ることにしたのである。法案の採決日、ガルバは有罪を認め、二人の未成年の息子と後見人を務めている孤児(ガイウス・スルピキウス・ガッルスの息子)を民衆の前に連れてきて、「哀れな演説」をした。 彼は民衆にこれらの子供たちの世話をするように懇願し、その場で遺言をするふりをした。聴衆は涙を流し、投票した人々の大多数は法案に反対した。アッピアノスは別の説を紹介している。「ガルバは自身の富のために有罪から救われた」、即ち賄賂を使ったとしている。
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