カンプチア王国の協力者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 03:51 UTC 版)
「日本占領時期のカンボジア」の記事における「カンプチア王国の協力者」の解説
「カンプチア王国(英語版)」も参照 1945年3月9日、戦争末期に日本はインドシナのフランス支配を終わらせた。フランスの植民地行政官は解任され、フランス軍は武装解除を命じられた。その目的は、先住民支配者に独立を宣言するように促すことで、東京の戦争努力に対する地元住民の弱っていた支持を回復させることだった。 3月13日、若き国王のノロドム・シハヌークは日本からの正式な要請を受けてカンプチア王国(英語版)の独立を宣言した(一方で、フランス語による公式国名はCambodgeからKampucheaに変更) 。その直後日本政府はカンボジア独立を名目上承認し、プノンペンに領事館を開設した。シハヌークの命令は、これまでのフランスとカンボジアの条約を破棄し、新たに独立した国として日本との協力と同盟を約束した。 新政府は、フランス植民地政府が強制し始めていたクメール語のローマ字化を廃止し、公式にクメール文字を復活させた。短命な政府当局が取ったこの措置は評判がよく、長く続いたものだった。それ以降、カンボジアのどの政府もクメール語を再びローマ字化しようとしなかったからである。その他の変化には、仏教の太陰暦の復活などを含んだ。 ノロドム・シハヌークはまた、最初に1945年3月18日からカンボジアの首相の役目を果たした。しかしながら、1942年の反フランスデモ後に日本に亡命していたもう一人のナガラヴァッタ支持者のソン・ゴク・タン(英語版)が、1945年4月に外相に就任するため帰国した。日本の降伏後、ソン・ゴク・タンは首相の座を引き継ぎ、1945年10月にフランスが復権するまで務めた。 日本のカンボジア占領は、1945年8月の正式な日本降伏で終わった。連合国の部隊がカンボジアに入った後、駐留していた日本軍は武装解除され、本国に送還された。フランスは、同年10月にプノンペンでの植民地統治を再開することができた。10月12日、日本と協力したとしてソン・ゴク・タンを逮捕した後、フランスの植民地当局は彼をフランスに追放し、そこで軟禁下に置いた。彼の支持者の何人かは地下に潜り、タイが支配する北西カンボジアに逃れ、そこで最終的に独立派のクメール・イッサラク(英語版)の軍と合流した。この反フランス的で政治的に異質な民族主義運動はタイの支持を得て組織されたが、後に派閥に分裂した。
※この「カンプチア王国の協力者」の解説は、「日本占領時期のカンボジア」の解説の一部です。
「カンプチア王国の協力者」を含む「日本占領時期のカンボジア」の記事については、「日本占領時期のカンボジア」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書からカンプチア王国の協力者を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- カンプチア王国の協力者のページへのリンク