カントからドイツ観念論へとは? わかりやすく解説

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カントからドイツ観念論へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 17:08 UTC 版)

ドイツ観念論」の記事における「カントからドイツ観念論へ」の解説

イマヌエル・カントの三批判書はしばしカント哲学といわれる。これはすでにドイツ観念論時代にもそうであった。しかしカント自身の「批判」 を「哲学」とはみなさなかった。「批判」とは哲学予備学として、人間理性によって遂行される限りでの哲学前提としての理性(独: Vernunft)の性格を示すものであるカントそれまで哲学、すなわち形而上学を、人間理性性格踏まえない空虚な体系、「独断論まどろみ」であると批判した。そして人間認識あり方とその前提としての超越論的認識問いまた、そのような前提をもつ人間理性対象となりうるものは何であるかについての考究向かった。この理性法廷での審査批判(独: Kritik)である。批判通じて伝統的な哲学対象であった存在(独: Sein)や神(独: Gott)は、認識理性によっては認識(独: erkennen)されえず、ただ思惟(独: denken)することのみが可能なものとされた。そしてカントにとって形而上学たる哲学(独: Philosophie)は批判の上にのみ書かれうるものであった一方ドイツ観念論代表的な思索家たちは、再び神と存在直接のかつ究極対象として取り上げた人間の知としての哲学真正対象神的なもの、あるいは端的に神であると宣言した彼らは、それぞれの思想が、かつそれのみ真正な哲学であるとの自負にたった。この自覚共有するのがドイツ観念論だとすればカントドイツ観念論思想家とは一線を画すといわねばならないだろう。カント著作を「哲学」として受容したヤコービラインホルトフィヒテシェリングらの若い世代は、カント理論潜む理性二重性分裂を、自らの哲学によって超え統一もたらそうとした。いいかえればカント物自体(独: Ding an sich)と認識(独: Erkenntnis)あるいは神と人間理性の間においた断絶をふたたび統一もたらそうとする運動が、ドイツ観念論だったのであるそのような統一与えるのが、自己意識すなわち自我(独: das Ich)であり、さらにそのような意識可能にする根拠でありかつ意識究極対象である絶対者ないし神である。ところでこの思想は、しばしば先鋭化して伝統宗教のもつ神概念対立し、またカント否定した神の認識可能性を再び主張することになる。一方カントは、学者言説には自由な言論認められるべきだが、社会安定のためにはそのような言説控える事はやむをえない場合があるとも考えていた。皮肉な事にカント自身によって刺激されドイツ観念論急進性は、カント穏健さとは相容れないのだったドイツ観念論初期の展開カント最晩年に当たるが、カント陽にフィヒテらを批判した。またドイツ観念論思想家たちも、カント二世界論不徹底なものと言明しカント超えることを標榜した。しかしカント1804年亡くなったとき、カント思想限界指摘してやまなかったドイツ観念論思想家たちは、一様にドイツ思想革新したこの巨人の死を悼んだのである

※この「カントからドイツ観念論へ」の解説は、「ドイツ観念論」の解説の一部です。
「カントからドイツ観念論へ」を含む「ドイツ観念論」の記事については、「ドイツ観念論」の概要を参照ください。

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