カッパロケットの軍事転用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 18:02 UTC 版)
「カッパロケット」の記事における「カッパロケットの軍事転用」の解説
1960年代にカッパロケットK-6Y型5基と関連機材(打ち上げ設備と固体燃料製造設備とロケット追尾用レーダー)がユーゴスラビアに輸出され、それらの技術はユーゴスラビアが独自開発していた地対空ミサイルR-25 ヴルカンに軍事転用された。 当時のユーゴスラビアはソ連と距離を置く独自の社会主義路線を歩んでおり、ソ連からの兵器の調達が困難になり兵器の国産化が急務となったため、ユーゴスラビア軍のミサイル開発責任者が1958年に欧州を訪問中の日本のロケット開発の中心人物であった糸川英夫東大教授と接触、1959年11月に東大生産技術研究所および富士精密工業とユーゴスラビアの間で輸出契約とユーゴスラビアからの技術者の受け入れの合意がなされた。1960年には平和目的の国際協力であることと軍事転用をしないことを契約条件に、ロケット本体と打ち上げ設備と固体燃料製造設備が1億7000万円で輸出されることが明らかになった。後にロケット追尾用レーダーも輸出された。 しかしユーゴスラビア側の本当の狙いは、ロケット本体よりも、ロケットに使われていた当時最新の固体燃料である「コンポジット推進剤」の製造方法と製造設備であった(先進各国では軍事機密であった)。日本から入手した固体燃料製造設備は、現ボスニア・ヘルツェゴビナ中部の都市ビテツ(ボスニア語版、セルビア・クロアチア語版、英語版)にある軍需火薬工場、通称「SPS」に納入された。その後、SPSはミサイルやロケット弾の推進剤の一大製造拠点となり、発展途上国に広く輸出された。この固体燃料製造設備は現存している。 1965年にはインドネシアにもカッパロケットK-8型10基と関連機材が伊藤忠商事によって輸出され、軍事転用を懸念したマレーシアが日本に抗議した。 これらの結果、1967年に佐藤栄作首相により、共産圏や紛争当事国への武器輸出を禁止する、「武器輸出三原則」が表明された。
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