カッパドキア王国
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カッパドキア王国(カッパドキアおうこく)は、ヘレニズム期のアナトリア半島のカッパドキア地方(現トルコ)を中心に存在した、イラン系[1]王国である。もともとこの地にはハカーマニシュ朝のカッパドキア州が置かれていたが、最後のサトラップであるアリアラテース1世が王を名乗って独立し、成立した。アリアラテース朝(紀元前331年–紀元前96年)、アリオバルザネース朝(紀元前96年-紀元前36年)、アルケラオス朝(アルケラオスの一代、紀元前36年–17年)と3つの王家が交代していき、17年に最後の王アルケラオスが死去したことで、ティベリウス帝時代のローマ帝国に併合され、カッパドキア属州となった。
- ^ McGing, Brian (1986). “Eupator in Asia before the first war with Rome”. The Foreign Policy of Mithridates VI Eupator, King of Pontus. BRILL. p. 72. ISBN 978-9004075917. ""As in Pontus the ruling family was of Iranian descent.""
- ^ a b c Raditsa 1983, pp. 106–107.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r Weiskopf 1990, pp. 780–786.
- ^ a b Cooper & Decker 2012, p. 178.
- ^ Raditsa 1983, p. 105.
- ^ a b c d Raditsa 1983, p. 107.
- ^ McGing 1986, p. 72.
- ^ a b c d Van Dam 2002, p. 17.
- ^ a b c Boyce 2001, p. 85.
- ^ Weiskopf 1987, pp. 757–764.
- ^ a b Raditsa 1983, p. 111.
- 1 カッパドキア王国とは
- 2 カッパドキア王国の概要
- 3 行政
- 4 カッパドキア王の一覧
カッパドキア王国 (紀元前250年代–17年)
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「カッパドキアの支配者一覧」の記事における「カッパドキア王国 (紀元前250年代–17年)」の解説
アリアラテース3世以降、カッパドキアの支配者はセレウコス朝の弱い支配下に置かれつつも、王と認められた。 アリアラテース3世 紀元前255年–紀元前220年 アリアラテース4世 紀元前220年–紀元前163年 アリアラテース5世 紀元前163年–紀元前130年 アリアラテース6世 紀元前130年–紀元前116年 アリアラテース7世 紀元前116年–紀元前101年 アリアラテース8世 紀元前101年–紀元前96年 アリアラテース9世 紀元前101年–紀元前96年 アリオバルザネース1世 紀元前96年–c.紀元前63年 アリオバルザネース2世 c.紀元前63–51年 アリオバルザネース3世 紀元前51–42年 アリアラテース10世 紀元前42–36年 アルケラオス 紀元前36–17年
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