オソン1世の迷走とは? わかりやすく解説

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オソン1世の迷走

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:45 UTC 版)

ギリシャ王国」の記事における「オソン1世の迷走」の解説

1843年以降歴代内閣オソン1世任命されていたが、これはすでに形骸化していた。特に占領軍撤退した後、オソン1世政治介入激しくなったため、クリミア戦争中になりを潜めていた反王党派活動活発化始めた。さらにイギリスフランスロシア各派閥の領袖たちも引退し始めたことにより西欧風の自由思想学んだ新たな世代西欧議会主義待ち望んでいた。 1859年オーストリアイタリアの間で戦争勃発した際は、ギリシャ人らはイタリアジュゼッペ・ガリバルディ共鳴していたがオソン1世オーストリア支持した。そのため、オソン1世クリミア戦争時に得ていた人気を失うこととなった。 さらに1859年行なわれ選挙により議会開催されたが、これは王党派自由主義的王党派二つ別れたが、オソン1世選挙以前から首相務めていたアサナシオス・ミアウリスによる内閣1862年まで継続させた。しかし、ギリシャ内はすでに不穏な空気流れており、王妃への襲撃事件暴動などが発生していた。 この状況の中、反王党派独立戦争時の英雄コンスタンティノス・カナリス中心に結集したオソン1世はこれに対して和解試みた失敗、そのため、1862年2月にはナフプリオペロポネソス半島一部キクラデス諸島一部蜂起発生した。しかし、この蜂起4月には鎮圧され指導者一人であるエパミノダス・デリイオルギスは逮捕された。オソン1世譲歩行なって事態収拾ようとしたが、依然としてギリシャ危険な状況であった。 さらにイギリスロシア志向オソン1世嫌悪感抱いており、イギリスと結びついていた反王党派指導者ブルガリスが反オソン1世運動の舵を取る事となった。 その後憲法形骸化しようとするオソン1世への不満はくすぶり続け国王夫妻正教徒でなかったことがギリシャ人たちの不満をさらに高め、それは反王室運動へと繋がった1862年8月ペロポネソス半島オソン1世とその妃アマーリアが行幸している最中アカルナニアパトラコリントス守備隊蜂起した上でアテネでもコンスタンティノス・カナリス、ディミトリオス・ブルガリス、ヴェニゼロス・ルーフォスらが後押ししたクーデター発生オソン1世廃位新国王の選出新憲法の制定求めた。さらに列強三国らはオスマン帝国維持自国利益考えたことにより、このクーデター支持回ったため、オソン1世退位拒否はしたが、結局故郷バイエルン隠棲した。 オソン1世王位追われたものの、ギリシャへの片思いは死ぬまで続き、『ギリシャ伝統衣装フスタネッラ)』を身に着けるなどして余生過ごした

※この「オソン1世の迷走」の解説は、「ギリシャ王国」の解説の一部です。
「オソン1世の迷走」を含む「ギリシャ王国」の記事については、「ギリシャ王国」の概要を参照ください。

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