オソン1世の迷走
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1843年以降、歴代内閣はオソン1世に任命されていたが、これはすでに形骸化していた。特に占領軍が撤退した後、オソン1世の政治介入が激しくなったため、クリミア戦争中になりを潜めていた反王党派の活動が活発化し始めた。さらにイギリス、フランス、ロシアの各派閥の領袖たちも引退し始めたことにより西欧風の自由思想を学んだ新たな世代が西欧的議会主義を待ち望んでいた。 1859年、オーストリアとイタリアの間で戦争が勃発した際は、ギリシャ人らはイタリアのジュゼッペ・ガリバルディに共鳴していたがオソン1世はオーストリアを支持した。そのため、オソン1世はクリミア戦争時に得ていた人気を失うこととなった。 さらに1859年に行なわれた選挙により議会が開催されたが、これは王党派と自由主義的反王党派の二つに別れたが、オソン1世は選挙以前から首相を務めていたアサナシオス・ミアウリスによる内閣を1862年まで継続させた。しかし、ギリシャ内はすでに不穏な空気が流れており、王妃への襲撃事件や暴動などが発生していた。 この状況の中、反王党派は独立戦争時の英雄、コンスタンティノス・カナリスを中心に結集した。オソン1世はこれに対して和解を試みたが失敗、そのため、1862年2月にはナフプリオ、ペロポネソス半島の一部、キクラデス諸島の一部で蜂起が発生した。しかし、この蜂起は4月には鎮圧され、指導者の一人であるエパミノダス・デリイオルギスは逮捕された。オソン1世は譲歩を行なって事態を収拾しようとしたが、依然としてギリシャは危険な状況であった。 さらにイギリスはロシア志向のオソン1世に嫌悪感を抱いており、イギリスと結びついていた反王党派指導者ブルガリスが反オソン1世運動の舵を取る事となった。 その後、憲法を形骸化しようとするオソン1世への不満はくすぶり続け、国王夫妻が正教徒でなかったことがギリシャ人たちの不満をさらに高め、それは反王室運動へと繋がった。1862年8月、ペロポネソス半島をオソン1世とその妃アマーリアが行幸している最中にアカルナニア、パトラ、コリントスの守備隊が蜂起した上でアテネでもコンスタンティノス・カナリス、ディミトリオス・ブルガリス、ヴェニゼロス・ルーフォスらが後押ししたクーデターが発生、オソン1世の廃位と新国王の選出、新憲法の制定を求めた。さらに列強三国らはオスマン帝国の維持と自国の利益を考えたことにより、このクーデターの支持に回ったため、オソン1世は退位を拒否はしたが、結局、故郷バイエルンに隠棲した。 オソン1世は王位を追われたものの、ギリシャへの片思いは死ぬまで続き、『ギリシャの伝統衣装(フスタネッラ)』を身に着けるなどして余生を過ごした。
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