ウェストポイント指揮官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 06:44 UTC 版)
「ベネディクト・アーノルド」の記事における「ウェストポイント指揮官」の解説
1780年8月3日、アーノルドはウェストポイント指揮官の職を得た。8月16日、アンドレからクリントンの最終提案である20,000ポンドを記した暗号文を受け取った。損失補償は削られていた。前線を越えた伝言を受け取る難しさのために、数日間は双方共にその提案を相手方が認めたことを知らなかった。アーノルドのその後の手紙はワシントン軍の動きの詳細や編成されつつあるフランス軍の援軍に関する情報が含まれていた。8月25日、クリントンが条件に同意したという手紙をペギーが配達した。 ワシントンはアーノルドにウェストポイント指揮官職を与える時、オールバニからハドソン川を下ってニューヨーク市郊外のイギリス軍前線までアメリカ軍が支配している流域全体に跨る権限も与えた。アーノルドはウェストポイントに向かう途中で、両軍に対して二重スパイを働いていることを知っていたジョシュア・ヘット・スミスとの面識を新たにした。スミスはウェストポイントの直ぐ西、ハドソン川の西岸近くに家を持っていた。 アーノルドは一旦ウェストポイントに落ち着くと、その防御と戦闘力を体系的に弱め始めた。ハドソン川に渡した鎖を修繕する必要があったが、それを発注することは無かった。兵士達はアーノルドの指揮範囲の中で自由に分散させ(ただしウェストポイント自体の中に限った)、あるいはワシントンの要請に応えて派遣した。ワシントンには物資の欠乏について苦情を言って困らせ、「あらゆるものが不足している」と書いた。同時にウェストポイントの物資を尽きさせるように仕向け、包囲戦をやれば成功しやすくした。彼の部下達の何人かは長い付き合いだったが、不必要な物資の配分にぶつぶつ文句を言い、最後はアーノルドが私益のために闇市場に物資を流しているのだと結論付けた。 8月30日、アーノルドはクリントンの条件を飲み、別の仲介者を通じてアンドレとの会見を提案する手紙を送った。その仲介者とはアーノルドが信頼に足ると考えるコネチカット議会議員のウィリアム・ヘロンだった。ヘロンは喜劇的な展開ではあるが、手紙の重大さを知らずにニューヨークに行って、自身がイギリスのためにスパイとして働く提案を行った。その後コネチカットに持ち帰り、アーノルドの行動を疑ってそれをコネチカット民兵隊の長に渡した。パーソンズ将軍は暗号化された手紙を取引上の通信と見て、それを横に置いていた。4日後、アーノルドは同じ内容の暗号化された手紙を捕虜の妻の奉仕を通じてニューヨークに送った。最終的に会見は9月11日にドブスの渡し場近くで行われるよう設定された。この会見は、アーノルドの差し迫った到着に付いて知らされていなかったイギリスの砲艦が川にいて、アーノルドのボートに砲撃したので中止された。
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