ウェストポイント引渡しの提案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 06:44 UTC 版)
「ベネディクト・アーノルド」の記事における「ウェストポイント引渡しの提案」の解説
1780年4月初旬にフィリップ・スカイラーがアーノルドにウェストポイントの指揮官職を与える可能性を示唆していた。スカイラーとワシントンの間のこの件に関する議論は6月初旬まで何の結果も生まなかった。アーノルドはイギリスとの秘密の連絡線を再開し、スカイラーの提案とスカイラーによるウェストポイントの状態に関する評価を伝えた。またコネチカット川を遡っていくフランスとアメリカ連合によるケベック侵略の提案に関する情報も与えた(アーノルドはこの提案がイギリスの勢力を分散させるための計略であることを知らなかった)。6月16日、アーノルドは自分の事業の面倒を見るためにコネチカットの自宅に帰る途中でウェストポイントを調査し、秘密の連絡路を通じてかなり詳細の報告書を送った。コネチカットに着くと自宅を売却する手配をし、ニューヨークの仲介人を通じて資産をロンドンに移し始めた。7月初旬までにはフィラデルフィアに戻り、7月7日にまた秘密文書をクリントンに宛てて書き、ウェストポイントへの任官が確保されたことを示唆し、「防御工作の絵...それで貴方が(ウェストポイントを)無傷で手に入れられる」までも提供すると書いた。 クリントン将軍とアンドレ少佐は勝利したチャールストン包囲戦から6月18日に戻っており、即座にこの報せに飛びついた。クリントンはワシントン軍とフランス艦隊がロードアイランドで合流することを心配しており、再度ウェストポイントを戦略的奪取目標に設定した。アンドレはアーノルドの行動を見守るスパイや情報提供者を持っており、その動きを確認した。クリントンはその計画の可能性に興奮して、情報作戦について上官に報告したが、7月7日付けのアーノルドの手紙に返事を書くこととを怠った。 アーノルドは7月7日付けの手紙に対する返事を受け取る前にも、クリントンに当てて一連の手紙を書いた。7月11日付けの手紙ではイギリスが彼を信用していないように見えると苦情を言い、進展しなければ交渉を止めると脅した。7月12日にも手紙を書き、ウェストポイントを引き渡すという提案を明白にしたが、報酬は(損失分の補償に加えて)20,000ポンドまで競り上げ、返書で頭金1,000ポンドを払うよう要求した。これらの手紙はスタンスベリーではなく、イギリスのためにスパイを働いていた別のフィラデルフィア実業家であるサミュエル・ウォリスによって運搬された。
※この「ウェストポイント引渡しの提案」の解説は、「ベネディクト・アーノルド」の解説の一部です。
「ウェストポイント引渡しの提案」を含む「ベネディクト・アーノルド」の記事については、「ベネディクト・アーノルド」の概要を参照ください。
- ウェストポイント引渡しの提案のページへのリンク