イベリア半島、フランス南部の初期ロマネスク建築
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「ロマネスク建築」の記事における「イベリア半島、フランス南部の初期ロマネスク建築」の解説
ロマネスク建築は、ニーダーザクセンとノルマンディのほかにもいくつかの地域で発生しており、11世紀にはこれらが二つの重要な地域、すなわちヨーロッパ西北から中央部、そしてピレネー山脈東部に統合された。 イベリア半島北部のキリスト教勢力域では、レコンキスタが本格的に行われるようになる10世紀から11世紀までの間に活発な建設活動が行われた。ロマネスク建築の活動中心地は、バルセロナ伯が支配したカタルーニャであったが、その後政治的重要性が急速に失われたため、当時のままの姿の教会堂が数多く残っている。バルセロナ伯は、フランク王国の辺境領としておかれたものであるが、常に独立を保ち続けており、実際にカロリング朝建築とはほとんどつながりを持っていない。カタルーニャの建築をひとことで表現するとすれば、それは石造トンネル・ヴォールトの建築、ということになる。この地域の主要な建築形態は、広間式教会堂(Hallenkirche)と呼ばれる形式で、平面はバシリカと類似するが、空間構成は北西ヨーロッパの木造平天井バシリカとは決定的に異なる。広間式教会堂は、両流れの屋根を持ち、内部は高さがほとんど同じ三連の石造トンネル・ヴォールトによって構成される。内部ヴォールトの高さが同じなので、通常のバシリカのように高窓は存在せず、内部は左右の壁に設けられた小さな窓しかないため、非常に暗い。外観も、通常のバシリカに比べると、著しくずんぐりとした印象を与える。初期ロマネスクの広間式教会堂は独特の神秘性を漂わせた教会堂であり、イベリア半島北部から南仏一帯の、アルビジョア十字軍によって滅ぼされた独自の文化を垣間みることができよう。これらの地域(カタルーニャだけでなく、ルシヨン、ミディ・ピレネー、アキテーヌ)では、広間式とともに、アストゥーリアスで採用された単廊式教会堂もひろく普及した。代表的な建築物として、カルドーナのサン・ヴィセンテ・デル・カスティーリョ聖堂(1029年から1040年頃)、ラ・トッサ・デ・モンブイのサンタ・マリーア聖堂(987年以降)がある。 ブルゴーニュの初期ロマネスクは、カタルーニャの建築と密接な関係を持っている。広間式教会堂が採用されただけでなく、天井は多くの場合、石造トンネル・ヴォールトによって構成された。トゥールニュのサン・フェリベール聖堂は完全な広間式ではないが、側廊の天井が高くつくられており、身廊の高窓は低い壁に穿たれている。太い円形ピアは、上部に細い円形付柱を搭載し、これが身廊の横断アーチを支えている。しかし、何よりこの教会堂を印象深いものにしているのは、横断方向にトンネル・ヴォールトが架けられていることで、構造的には、ヴォールトを並べることによって水平方向の応力が相殺されるため、安定性が高い。しかしながら、この措置は他の教会堂建築には、若干の例を除けばほとんど見られない。内部のヴォールト構造が、ヨーロッパ南部の特徴を継承するものであるとすれば、双塔を備える重厚なつくりの西正面は、北部ヨーロッパとの連携を示している。
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