イフシード朝政権の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 22:41 UTC 版)
「ファーティマ朝のエジプト征服」の記事における「イフシード朝政権の崩壊」の解説
968年4月にカーフールが後継者を定めることなく死去したことで、イフシード朝政権は機能不全の状態に陥った。イフシードの娘と結婚し、息子が統治者の地位を継承する希望を抱いていたカーフールの宰相(ワズィール)のジャアファル・ブン・アル=フラート(英語版)は、権力の掌握を試みたものの官僚層以外の支持基盤を欠いていた。一方で軍は互いに対立する派閥に分裂した(主にイフシードによって取り立てられたイフシーディーヤとカーフールによって取り立てられたカーフーリーヤ)。軍の指導者たちは自らの派閥からカーフールの後継者を立てることを望んでいたが、イフシード家と民衆、そして宗教勢力の有力者による反対に直面して撤回を強いられた。 最初にさまざまな派閥間でイフシードの11歳の孫のアブル=ファワーリス・アフマド・ブン・アリー(英語版)を名目上の統治者として擁立し、その叔父でパレスチナ総督のアル=ハサン・ブン・ウバイドゥッラー(英語版)が摂政、ジャアファル・ブン・アル=フラートがワズィール、そして奴隷兵(グラーム)出身のシャムール・アル=イフシーディーが軍の最高司令官として権力を分担することで合意が成立した。しかしながら、イフシード朝の支配層における個人や派閥間の対抗意識が表面化したことで、合意はすぐに破綻した。イフシーディーヤを率いていたニフリール・アッ=シュワイザーンとカーフーリーヤを率いていたファナクが衝突した結果、ファナクとその部下がパレスチナのラムラまで逃亡した出来事に見られるように、シャムールには軍に対するあらゆる実効的な権力が欠けていた。一方でジャアファル・ブン・アル=フラートは政敵の拘束の乗り出し、それによって実質的に政府、さらには決定的な問題として徴税の機能を停止させた。摂政のアル=ハサン・ブン・ウバイドゥッラーは11月にパレスチナからエジプトに到着してフスタートを占領し、ジャアファル・ブン・アル=フラートを投獄した。しかし権力を確立する試みは失敗に終わり、969年の初めに首都を放棄してパレスチナへ戻った。そしてエジプトは実質的な無政府状態のまま残された。 歴史家のヤーコフ・レフは、このような行き詰まりに直面したエジプトの支配層には「外部の介入を求める選択」だけが残されたと記している。当時の国際情勢を踏まえると、ファーティマ朝のみがその選択可能な対象であった。複数の中世の史料では、民間と軍事指導者からの書簡がイフリーキヤのファーティマ朝のカリフであるアル=ムイッズ・リッ=ディーン・アッラーフ(在位:953年 - 975年)のもとへ送られたと記録されている。イフリーキヤではエジプトへの新たな侵攻の準備がすでに本格化していた。
※この「イフシード朝政権の崩壊」の解説は、「ファーティマ朝のエジプト征服」の解説の一部です。
「イフシード朝政権の崩壊」を含む「ファーティマ朝のエジプト征服」の記事については、「ファーティマ朝のエジプト征服」の概要を参照ください。
- イフシード朝政権の崩壊のページへのリンク