イフシード朝の兵士の処遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 22:41 UTC 版)
「ファーティマ朝のエジプト征服」の記事における「イフシード朝の兵士の処遇」の解説
すでに969年の時点でジャウハルはおよそ5,000人から6,000人の兵士とともにイフシーディーヤとカーフーリーヤの14人の指導者の降伏を受け入れていたが、指揮官は拘束され、軍隊は武装解除された。イフシード朝の部隊、指揮官、および一般兵の資産も同様に新しい政府によって組織的に押収された。 ファーティマ朝は以前のイフシード朝の兵士の忠誠を疑い、正規軍として自軍に組み入れることを拒否した。例外的に一部の元イフシード朝の将軍が現地に関する優れた知識を持っていたことでエジプトにおける反乱を抑えるために新政権の初期に雇われた。一方で、特に解散させられた一般兵は他の生計手段を奪われたために、ヤーコフ・レフの言葉を借りれば、非常時のための「戦闘要員の貯水池」として利用された。多くは971年のカルマト派の侵略に対抗するために採用されたが、カルマト派の侵略を撃退した後、ジャウハルはこれらの兵士のうち900人を拘束した。そして974年の二度目のカルマト派の侵略に対して採用されるまで解放されなかった。かつてのイフシード朝の兵士たちは、981年になってようやくいくつかの大きな敗北を喫したファーティマ朝の軍隊を補充するために採用された。一方、エジプトから逃亡したより多くのイフシード朝の兵士は代わりにカルマト派に加わった。
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