イフシード朝の残存勢力の制圧とシリアへの拡大の試み
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「ファーティマ朝のエジプト征服」の記事における「イフシード朝の残存勢力の制圧とシリアへの拡大の試み」の解説
イフシード朝の残存勢力はパレスチナのアル=ハサン・ブン・ウバイドゥッラーの下に集結したが、一方ではビザンツ帝国がさらに北のアンティオキアを長期に及んだ包囲の末に占領し、アレッポのハムダーン朝に臣従を強要した。この状況を受けてジャウハルは最後のイフシード朝勢力を制圧し、さらにはジハードを再開する約束を果たす姿勢を示してビザンツ帝国と対決するためにジャアファル・ブン・ファッラーフが指揮する軍隊を派遣した。 ファーティマ朝軍は970年5月にアル=ハサン・ブン・ウバイドゥッラーを破って捕虜としたものの、ダマスクスの住民はクターマ族の兵士の粗暴な振舞いに激怒し、最終的に降伏して略奪を受けることになった970年11月まで抵抗を続けた。ファーティマ朝の軍隊はアンティオキアを包囲するためにダマスクスから北へ向かったが、結果はビザンツ帝国に対する敗北に終わった。さらに、同じ時期にジャアファル・ブン・ファッラーフは地域内のアラブのベドウィン部族と同盟したカルマト派の攻撃に直面し、971年8月の戦闘で敗れて戦死した。シリアとパレスチナにおけるファーティマ朝の支配の確立は失敗に終わり、エジプトへの道は無防備なまま残された。
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