イタリア逃亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 15:58 UTC 版)
「ヴィト・ジェノヴェーゼ」の記事における「イタリア逃亡」の解説
イタリアのナポリ近郊ノーラに落ち着くと、ムッソリーニの息子に取り入り、25万ドルをファシスト政権に献金した。当時ムッソリーニ政権がマフィアの徹底弾圧政策を取っていたにもかかわらず、ベニート・ムッソリーニ本人と親しい仲になった。ファシスト党への貢献が認められて最高の栄誉の「コメンダトーレ」の称号を授与された。1943年にはムッソリーニ批判の急先鋒だったニューヨークの著名ライター、カルロ・トレスカ殺害をお膳立てしたとされる(実行犯はカーマイン・ギャランテとされる)。やがてナポリで地元カモッラの麻薬取引に参入した。 1943年、連合国軍がイタリアに上陸してムッソリーニ政権を倒すと、立場を変えてアメリカ軍情報部に取り入った。駐留アメリカ海軍司令部の公式な通訳に任命されると、その立場を利用して軍需品の横流し・転売で稼いだ(マフィアが連合国軍のイタリア上陸を手助けした関係から、多くの米軍将校がマフィアを通じて私腹を肥やし、マフィアもその恩恵を受けていた)。シチリアの地元マフィア、カルゲロ・ビジーニと組んで大麦、オリーブオイル等の密売を手掛け、南イタリアの闇市を支配した。ジェノヴェーゼが砂糖や小麦粉などをアメリカ軍から盗み、近隣の町で売りさばいているという情報が軍情報部に入り、通訳を解任された。 1944年6月、ウィリー・ギャロ暗殺未遂で監獄にいたルポロが、減刑と引き換えにジェノヴェーゼら6人のボッチア殺しに関する証言を開始し、ジェノヴェーゼは指名手配された。1944年8月27日、ノーラでアメリカ軍犯罪調査官のオレンジ・C・ディッキーに逮捕され、1945年6月1日アメリカに連行された。ディッキーに25万ドルの賄賂を申し出てアメリカへの連行を逃れようとしたが、ディッキーに断られた。1945年から1946年にかけ、ボッチア殺人事件の証人ジェレミア・エスポジト、ピーター・ラテンパら2人が組織の人間に殺されており、検察側の使えるカードはボッチア殺しに直接関わっていないルポロの証言のみとなった。1946年6月10日、証拠不十分で無罪釈放された。
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