イタリア進出とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/04 11:44 UTC 版)
スキリア王国が崩壊した後、オドアケルは生き残ったスキリア族に多くのヘルール族、ルギイ族を合わせ、リキメル治下のイタリアへ移動して西ローマ軍に参加した。またトゥルツィリンギと呼ばれる集団もオドアケルの集団に参加していたとされる。ヨルダネスは、オドアケルをトゥルツィリンギの王と呼んでいる。トゥルツィリンギは他の東ゲルマン部族の一つ、あるいはスキリア族の王族を指す語であると考えられている。オドアケルの兄弟オノウルフスは、他のスキリア族の一団を率いてコンスタンティノープルに入った。オドアケルの集団は戦士1万人を数えたとされ、ローマ帝国とその政界においても重要な役割を果たすようになった。皇帝リキメルは、アンテミウスとの抗争のためにオドアケルの軍団を利用した。 476年、オドアケルは「野蛮人」の部隊を率いて、皇帝ロムルス・アウグストゥルスとその父オレステスに対する反乱を起こした。そしてオドアケルは自らイタリア王を名乗り、西ローマ帝国は終焉を迎えた。オドアケルはイタリア全土を支配下におさめ た。彼の蜂起はコンスタンティノープルにいた弟オノウルフスと示し合わせたものであった可能性もある。486年、オノウルフスは東ローマ皇帝ゼノンの信認を失い、配下のスキリア族を率いてラヴェンナに移り、オドアケルのもとに参じた。そのあと、ゼノンは東ゴート族の王テオドリックにイタリアへ遠征させた。最終的にオドアケルに勝利したテオドリックは、493年3月15日にオドアケルを講和の宴席で自ら刺殺し、東ゴート王国を建国した。これをもって、スキリア族は歴史上から姿を消した。 スキリア族の残余は、現在のバイエルン付近に移って定着した可能性がある。彼らはヘルール族やルギイ族とともに、バイエルン人の基礎となった可能性もある。
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