イタリア遠征と息子たちとの反目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:57 UTC 版)
「オットー1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「イタリア遠征と息子たちとの反目」の解説
王妃エドギタの死後、オットー1世はリウドルフを傍近くに置いて自分の補佐をさせたいと考えた。しかし、リウドルフの方では父の言いなりになることを嫌った。妻イーダと共に義父から継いだシュヴァーベンの大公領などに身を置き、自分の名前で貨幣を発行したり、ザンクト・ガレン修道院の文献の整理を奨励したり、施療院などの公共施設を整えたりと、自分の力で政治を行えることを示そうとした。 950年、イタリアの王位継承権を持つイタリア王ロターリオ2世の未亡人アデライーデがオットー1世に救いを求めてくる。イタリア王位を狙うイヴレア辺境伯ベレンガーリオとその息子アダルベルトに結婚を迫られ、断ったために幽閉されているというのである。リウドルフは父の許可を得ないまま、いち早くアルプスを越え、アデライーデの救出に向かった。オットー1世は激怒し、弟ハインリヒと婿のコンラート赤公に後を追わせ、自らも大軍を率いてイタリアへと遠征する。結局、ベレンガーリオ父子は敗れてアデライーデは無事救出された。この時、オットー1世はカール大帝のようにローマで帝冠を戴きたいと望んだが、それは果たされなかった。 オットー1世は勝手な行動をとった息子を許さず、リウドルフが果たした多大な功績は全てハインリヒとコンラートのものとされ、彼らは充分すぎるほどの褒賞を与えられた。コンラートは名誉を剥奪された義兄弟に同情的であり、敗れたアダルベルトともよしみがあった。コンラートはオットー1世にベレンガーリオ父子の許しを乞い、新たに任じられたイタリア総督の地位を辞して、父子がその椅子を得られるようにとりなした。結局、オットー1世はこれを容れたが、それはイタリアをも自らの近親者に治めさせようという計画に反するものであり、この件での対立以来、オットー1世とコンラートの折り合いは以前ほど良好なものではなくなった。 951年、オットー1世は自分の娘と同年のアデライーデを後妻に迎え、イタリア王を名乗った。翌952年、彼女が男児ハインリヒを産むと、その子を正当な世継ぎとするつもりであるかのような態度を見せ始めた。リウドルフは当然面白く思わず、大規模なクリスマス・パーティーをザールフェルトで主催した。その席には妹のリウトガルトとその夫のロートリンゲン公コンラート、マインツ大司教フリードリヒら王国の有力者が呼ばれていたが、この饗宴で陰謀を企てているのではないかと疑いの目を向けられることとなった。
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