イスラエル・パレスチナ両政府による迫害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 15:40 UTC 版)
「パレスチナのキリスト教」の記事における「イスラエル・パレスチナ両政府による迫害」の解説
同じアラブ人(アラビア語話者)同士として古くからイスラム教徒(ムスリム)と共存し、「聖地」を脈々と守り継いできたパレスチナ人キリスト教徒だが、現代ではイスラエルとパレスチナの両政府、ユダヤ教徒とイスラム教徒の両者から迫害を受ける立場となってしまった。 パレスチナ自治区においては、2004年にイスラム原理主義組織ハマス党がパレスチナ自治政府の政権を掌握して以来、非イスラム教徒に対する不寛容が高まり、パレスチナ人キリスト教徒は深刻な危機に晒されている。2006年のニュースによると、過去40年間でヨルダン川西岸地区のキリスト教徒の人口は約20%から2%未満にまで減少したという。当時と現在のほとんどのキリスト教徒はパレスチナ人である。この減少は、イスラエルによる占領と抑圧、またユダヤ人の大量入殖による実効支配の既成事実化と、パレスチナ人の間でイスラーム過激派が増加した結果である。イスラム教徒やユダヤ人に比べて低い出生率も減少の一因である。 他方、イスラエル政府の支配下にあるパレスチナ人キリスト教徒も、土地の所有権から住居や雇用の権利などに至るまで、他の非ユダヤ人と同じように、広範囲にわたる公式および非公式の差別に苦しんでいる。1948年のイスラエル建国時には、パレスチナ人への集中攻撃と75万人もの大量追放が行われ、その中にはアッシリア人やアルメニア人なども含む多くの中東系キリスト教徒が含まれていた。1967年の第三次中東戦争で、イスラエルがヨルダン川西岸地区と東エルサレムを占領した際に、イスラエル政府はエルサレム旧市街のシリア人街区の大部分を破壊してユダヤ人街区を拡張し、数百人のシリア系キリスト教徒(アッシリア人)を追放した。 1993年以来、イスラエル政府実効支配下の地とパレスチナ自治政府管轄下の地の間には壁や柵などの物理的障壁と検問所が設置され、パレスチナ人(ことにパレスチナ自治政府籍の人々)は厳しい移動の制限が課され、イスラエル占領下の東エルサレムの聖墳墓教会やイスラエル領内のナザレなどへ、また逆にイスラエル領内に住む者はパレスチナ自治政府管轄下のベツレヘムなどへ、たとえ巡礼のためであっても自由に往来ができなくなっている。2011年4月には、15,000人のパレスチナ人キリスト教徒が、エルサレム旧市街に建つ聖墳墓教会などで復活祭を祝うために、イスラエル占領下の東エルサレムに入域する許可を申請したが、イスラエル政府はそのうちの約2,500人しか許可を出さなかった。 イスラエルと国交のある国々からの外国人の観光・巡礼客は、貴重な収入源となる観光産業のため基本的には往来が許可されるが、観光バスの運転手やツアーガイド(巡礼者の先導)は、比較的移動の自由が認められているイスラエル国籍のキリスト教徒や、フランシスコ会の修道士ほか外国人の一時的居留者などが務めることが多い。
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