アーリントン記念碑論争
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「ジョン・W・ジョンストン」の記事における「アーリントン記念碑論争」の解説
1870年12月13日、ケンタッキー州選出上院議員トマス・C・マクリーリー(民主党)が、南軍指揮官ロバート・E・リーの元住居だったアーリントン・ハウスに関する決議案を提案し、猛烈な反対にあった。アーリントン・ハウスは南北戦争の間に北軍に占領され、その敷地は終戦までに16,000人の兵士の墓地に使われていた。この決議案はそこの所有権を調査し、リーの未亡人であるメアリー・アンナ・カーティス・リーに返還する可能性を調べるよう要求するものだった。さらにマクリーリーは、政府が前提条件を決め、発見されたワシントンの遺品は全て返却し、遺骸を移すための適当な場所が近くにないかを判断するという提案を行った。ジョンストンはその13年間の議員生活で最もはっきり目に付いたものとして、その興奮を表現していた。「私の人生でもっとも痛みを伴い、当惑させる立場に」置かれた。次のように熱烈に反対した。 「 何千もの遺骸を掘り出し運ぶための仕事を作るという考えには、大変嫌悪を催させるものがあった。それは戦場で倒れた勇敢な人々のものだった。この決議案の要素が不愉快なものであるだけでなく、その論調が等しく不愉快だった。「さあ、これらの塀を上塗りし、床を磨き上げ、家や敷地を整え、骨を掘り出し、所有者の手に返すのだ」と言っているように思われた。 」 しかしジョンストンは決議案に反対する演説の中で、リーの記憶が攻撃されているように感じ、リーを守らなければならない任務があると考えた。その見解や立場を知っていた民主党は、党のためにまたバージニア州を救うために沈黙を守るよう求めた。ジョンストンは自宅で攻撃されることになると、まさしく予想した。再選を求めているときであり、対立候補はジョンストンに対立するその立場を利用した。バージニア州議会の代表団がワシントンに行って民主党と会談し、その状況を評価し、受け取った報告書に満足した。 後にジョンストンはリー未亡人とその記念碑提案のために演説を行った。最初に演説しようとしたときは反対され、許可されなかった。会期の終盤近くに、別の法案が審議されているとき、ジョンストンがそれに関する動議を出し、その機会を利用して演説を行った(このような事は上院議員に認められていた)。それが、「議場の大きな憤慨と短気を引き出す」ことになった。リー家とその助言者は「アーリントンの売却に関する真実と資産に関するリー未亡人の権利の性格を、国の前に示すべきだ」という願望があった。リー未亡人にとって有利なことが分かれば、補償を得られ、政府に資産を寄付することもできると考えた。1881年、アメリカ合衆国最高裁判所はリー家有利の判決を下した。
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