アリウス派からカトリックへの改宗とは? わかりやすく解説

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アリウス派からカトリックへの改宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 07:39 UTC 版)

西ゴート王国」の記事における「アリウス派からカトリックへの改宗」の解説

西ゴート族アリウス派信仰していた。イシドールスによれば西ゴート族ローマ帝国内に侵入した際のローマ皇帝ウァレンスアリウス派だったためである。ウァレンス帝はニケーア信条奉じるアタナシウス派弾圧しアリウス派信仰正統としていた。西ゴート王国ではゲルマン人ローマ人通婚禁止され背景には信仰相違があったと考えられている。レオヴィギルド王の時代ゴート人ローマ人通婚許可された。 ローマ帝国領内侵入からイスパニア定住に至る西ゴート族移動期には、カトリック勢力との軋轢目立たないイスパニア定住後に軋轢増加するがその原因カトリック聖職者の側にあったとされるイシドールスゴート人歴史』には西ゴート王の異端過去には配慮見られ、彼らがカトリック寛容であったことが強調されている。そのためエウリック王のカトリック迫害にも沈黙している。 西ゴート中興英主レオヴィギルド王はガリア喪失して以降分裂傾向にあった国内再統一した。宗教政策上もカトリックには弾圧加え一方アリウス派教義カトリック入信しすいよう一部改変し、統一はかったカトリック改宗したヘルメネギルド王子反乱があったが、反乱の翌580年に王はアリウス派教会会議開き従来「父」より下位置かれていた「子」を、「父」と同格とした。これによりカトリック側から改宗者増えたが、カトリック教会側は勢力切り崩し捉え反発した。 つづくレカレド王は587年に、メロヴィング朝同じくカトリック集団改宗したレカレド王の改宗個人的なものとも集団的ともとれるが、589年第三回トレド教会会議にて西ゴート王国は公式にアリウス派からカトリック改宗した。これによりアリウス派反乱鎮圧王権教会提携強め西ゴート王国カトリック国家となった会議では、教義だけでなく世俗的な問題議題とされ、世俗高官臨席した。首都トレドキリスト教西ヨーロッパ世界宗教的政治的首都見なされるようになった。レカレド王以降の王は589年から701年の約110年の間に18回の宗教会議召集し6世紀中頃からは神権政治色彩帯びるようになる

※この「アリウス派からカトリックへの改宗」の解説は、「西ゴート王国」の解説の一部です。
「アリウス派からカトリックへの改宗」を含む「西ゴート王国」の記事については、「西ゴート王国」の概要を参照ください。

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