アリウス派と東西教会分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:29 UTC 版)
「古代末期のキリスト教」の記事における「アリウス派と東西教会分裂」の解説
337年、ニコメディアで皇帝コンスタンティヌス1世が死去すると、長男コンスタンティヌス2世がブリタニア・ガリア・イスパニアの帝国西方を統治したが、三男コンスタンス1世がイタリア半島、イリュリクム、ギリシア、北アフリカを支配し、ローマ帝国が三分割された。コンスタンスはミラノを首都とした。 ローマ市では伝統宗教が根強く、キリスト教への反抗が生じた。ローマ元老院は皇帝のキリスト教優遇に反発して、350年のマグネンティウスの反乱でコンスタンス皇帝を殺害した時には、マグネンティウスを支持した。 マグネンティウスは帝位につき、東方皇帝の次男コンスタンティウス2世と対立したが、351年にコンスタンティウス軍に敗れた。コンスタンティウス2世は357年に即位20周年記念式典を挙行して、ローマの反キリスト教派、反皇帝派をおさえつけようとしたが、元老院議員の反抗はその後も続いた。 第1ニカイア公会議で異端とされたアリウス派であったが、皇帝コンスタンティウス2世はアリウス派を支持した。使徒伝承を信仰するアレクサンドリア大司教アタナシオスは335年の追放のあと一時戻されていたが、339年に二度目の追放処分をうけて、ローマ教会に避難した。このときアンキィラ司教マルチェッロスも追放され、同じくローマに避難した。ローマ司教ユリウス1世は、ローマに避難してきたアタナシオスとマルチェッロスたちの信条を支持し、以後、ローマ教会は一貫してアタナシオスを支持し、アリウス派を異端とした。ローマ司教ユリウス1世は341年のローマ会議でアタナシオスとマルチェッロスを支持し、アリウス派を非難したため、アンティオキア等東方教会のアリウス派は激怒した。 343年のサルディカ宗教会議で東西合同会議は決裂し、東方司教はユリウス1世ら西方司教を破門し、西方司教も東方司教を破門したため、東西教会は分裂(シスマ)した(381年の和解まで)。東西教会分裂のため、西方教会の司教のみがサルディカ宗教会議を続行し、司教座の保持の適法性と判断権が認められ、ローマ司教の首位権(教皇権)が強化された。 アリウス派はニカイア信条に代わる信条を作成した。カイサリアのアカキウスはキリスト従属説に立って、「神と相似する(ホモイウシオス)とした。360年、アリウス派は東皇帝コンスタンティウス2世を動かして、コンスタンティノポリス会議を開いて、アリウス派信条を制定した。これによって、アタナシオスは三度目の追放処分を受けて、エジプトへ追放された。しかし、アタナシオスはエジプトの修道士アントニオスと交わり、味方につけた。この頃、コンスタンティノポリスに聖ソフィア大聖堂が建立された。 その後、ユリアヌス帝(在位:361年 - 363年)はギリシア文化に傾倒し、伝統宗教を復興させ、キリスト教教師を追放したが、ユリアヌスはペルシア遠征で戦死した。 後継のヨウィアヌス帝(在位:363年 - 364年)はアタナシオスの働きかけをうけてニカイア信条派を支持した。363年、ヨウィアヌスはシリアとトルコの国境にあるニシビスをペルシアサーサーン朝シャープール2世に割譲し退却したため、シリアのエフレムなどはエデッサに逃れた(シャンルウルファ#エデッサのキリスト教史)。
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