ゲルマン人の集団改宗とは? わかりやすく解説

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ゲルマン人の集団改宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:57 UTC 版)

中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「ゲルマン人の集団改宗」の解説

メロヴィング朝西ゴート王国カトリックへの改宗を見ると、それは決し個人的な理由のみで行われたではなく集団改宗という形式一般に行われたと見る方が適切であろう少なくともクローヴィス改宗明確に集団改宗である。レカレド王の改宗587年にまずなされているが、この改宗個人的なもの集団的なものかは明らかでないが、589年トレド公会議西ゴート王国を公式にカトリック改宗へと導いたこのような集団改宗近代的な個人の信仰心のあり方同列論じることはできないであろうゲルマンの王は集団支持を必要としており、彼らの改宗は、個人的な内面性より集団重点置かれていた。改宗直接的に国王個人住民の生活習慣変えるようなものではなかったことからも明白である。たとえばクローヴィス洗礼受けたにも関わらずその後有様蛮族の王そのままであったし、そもそもメロヴィング王国住民表面的にしかキリスト教化されていなかった。 このような改宗何をもたらしたであろうか。一般的な説明では、改宗によって支配者と被支配民の宗教一致し統治安定もたらしたことが述べられる一方改宗政治的意義小さく、あるいは全く評価しない論者もいる。たとえばコリンズ (en:Roger Collins) によれば西ゴート王国改宗以前、被支配民であるローマ系住民カトリック支配者であるゴート族アリウス派からカトリックへの改宗進んでおり、両者アイデンティティー統合進みつつあった。レカレド王は改宗後に徹底的なアリウス派根絶努めており、それにより王を中心とする政治的宗教的統一体形成の基盤をなしたという見方も可能である。メロヴィング朝では7世紀クロタール2世統治期に王の権威の上昇が見られるが、これはキリスト教王権王国を守るという崇高な任務与え聖性付与し、その意義高めたからである。 [先頭へ戻る]

※この「ゲルマン人の集団改宗」の解説は、「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の解説の一部です。
「ゲルマン人の集団改宗」を含む「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事については、「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の概要を参照ください。

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