ゲルマン人との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 19:19 UTC 版)
「ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス」の記事における「ゲルマン人との戦い」の解説
デキウス帝が戦死(アブリットゥスの戦い)したようにローマにとって北方異民族の侵入は難問であり、アウレリアヌスの代でも激化の一方であった。クラウディウス・ゴティクスの時期にゴート族を撃破(ナイススの戦い)したことで小康状態にあったものの、クラウディウス・ゴティクスの死とその後の混乱で、再び北方異民族の動きが活発化しつつあった。 271年、アラマンニ族がポー平野に入り町を略奪しながら、イタリアに向かって侵入した。アラマンニ族は40,000の騎兵および80,000の歩兵を以てドナウ川及びポー川を渡り、プラセンティア(現:ピアチェンツァ)を占領して、ファーノに向かって進んだ。ヴァンダル族に備えるべくパンノニアにいたアウレリアヌスはイタリアに入ったものの、ローマ軍はアラマンニ族にプラセンティア近郊で待ち伏せに遭って一旦は敗北したものの、アウレリアヌスはポー川と再交差するパヴィアまで行軍しメタウロ川(Metaurus)の近くで宿営していたアラマンニと交戦(ファーノの戦い(英語版))してこれを撃破した。さらにパウィア近郊での3度目の決戦でアレマンニ族の軍を壊滅させ、アレマンニ族を北方へ退けた(これにより "Germanicus Maximus" の称号を受けた)。 また、アウレリアヌスはバルカン半島へ侵入したゴート族と戦い、ゴート族の族長カンナバウデス(Cannabaudes)を討ち取り、ゴート族もドナウ川以北へと退けた(これにより "Gothicus Maximus" の称号も得た)。北方蛮族の侵入をひとまずは食い止めたものの、ドナウ川の北側に位置し防衛が極めて困難であったダキア属州をゴート族へ譲渡すると共にドナウ川の南にセルディカ(Serdica、現:ソフィア)を州都として新ダキア属州を新設し、ドナウ川南岸を防衛線とする体制を構築した。 再三にわたってイタリア本土へ侵攻する北方異民族に対して、ローマを守る必要に迫られたアウレリアヌスは、王政ローマ期以来となるローマを囲む城壁(「アウレリアヌス城壁」)を構築し始めた(完成は死後)。
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