ゲルマン、スラヴ、ブランデンブルク辺境伯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 14:17 UTC 版)
「ベルリンの歴史」の記事における「ゲルマン、スラヴ、ブランデンブルク辺境伯」の解説
紀元前3000年紀には耕地が造られたり家畜飼育が行われたりしたほか、手製の土器、備蓄倉庫などが作られるなどの文化が形成された。紀元前6世紀になると、このころの史料にスエビ族の一部であるセムノーネース族(ドイツ語版)やブルグント族といった名称が出てくるようになり、勢力を強めたゲルマン人が定住するようになる。 紀元後4世紀から5世紀にかけてゲルマン民族の大部分がハーフェル川やシュプレー川周辺から離れ、シュヴァーベンなどのオーバーライン地方(ドイツ語版)に移っていった。このためベルリン周辺の人口密度は低下したが、なおも少数のゲルマン人がベルリン周辺に残っていた。6世紀になるとスラヴ人がラウジッツ地方に流入し、720年ごろになるとベルリン周辺に入り込んできた。スラヴ人はかねてより住んでいたゲルマン人にかわってベルリンに定着するようになった。 ベルリンに残ったゲルマン人は数世紀にわたって奪還に失敗し続けてきたが、その後ベルリンのスラヴ人時代はアスカニア家出身のアルブレヒト1世がヤクツォ(ヤクサ・フォン・ケーペニック(ドイツ語版)と同一人物とする見方がある)率いるスラヴ人を打ち破り、1157年にブランデンブルク辺境伯に封じられたことで終焉を告げる。現在のベルリン内に形成された最初の村がテルトウ台地に造られ、その後アスカニア家の辺境領として開拓されて、政治の中心地やシトー修道会(レーニン修道院)とテンプル騎士団(騎士修道会管区テンペルホーフ(ドイツ語版))などの世界的な活動の中心地となっていった。
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