アメリカ合衆国とシャイアン族、アラパホ族との間のコロラド戦争
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「コロラド準州」の記事における「アメリカ合衆国とシャイアン族、アラパホ族との間のコロラド戦争」の解説
詳細は「コロラド戦争」を参照 1851年、第一次ララミー砦条約(英語版)により、アメリカ合衆国はシャイアン族とアラパホ族に、コロラド地域のノースプラット川とアーカンザス川の間、ロッキー山脈の東の東部平原の支配を認めた。1860年代までにコロラド・ゴールドラッシュとホームステッド農民がインディアンの領域に侵入したことの結果として、合衆国市民と先住民の間の関係は悪化した。1861年2月18日、ワイズ砦条約でシャイアン族とアラパホ族の数人の酋長が、10年前に彼等に与えられた土地の大半を白人の入植のために譲ること、およびアーカンザス川とサンドクリークの間にある当初の居留地のほんの一部のみを保持することについて、合衆国の代表と同意した。 インディアン共同体のかなりの者達がこの条約を否定し、酋長達は署名する権限が無い、署名するように賄賂を貰ったのだと宣言し、彼等の猟場に侵入してくる白人に対してより好戦的にすらなった。1862年にコロラド準州知事ジョン・エバンスが南北戦争から戻ったコロラド志願兵連隊を州兵に改編し、泥棒で告発されたインディアンに対して強硬路線を取ったために、緊張感が高まった。後にコロラド戦争と呼ばれることになる幾つかの小さな出来事の後、1864年11月、コロラド州兵800人の部隊が、ひどく酒を飲んだ後で、サンドクリークにあったシャイアン族とアラパホ族の集落を攻撃し、ほとんど老人と女子供ばかり150名ないし200名を殺害した。このサンドクリークの虐殺、またはシャイアン・インディアンの虐殺は、1865年3月と4月にアメリカ合衆国議会戦争行為合同委員会の査問に付された。議会合同委員会は査問の後の1864年5月4日付けの報告書で、ジョン・チヴィントンとその志願兵達の行為は「下品で、卑劣で、残忍で、臆病」としたうえで、次のように付け加えた。 “ 人間の形をした存在が、不名誉にもアメリカ合衆国の兵隊と仕官の制服を着て、証言に表されたが委員会は報告書に具体的に記さなかったような残虐で野蛮な行為を実行しあるいは実行を容認するとは信じがたいことである。 ” それでも委員会判断はこの虐殺に責任ある者に罪を問わなかった。さらにコロラド戦争の続きとして、アラパホ族、シャイアン族、カイオワ族およびコマンチェ族の最後の爆発がコロラドを出てオクラホマで起こった。
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