アメリカ合衆国と反乱軍の衝突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 15:23 UTC 版)
「フィリピンの歴史 (1898年-1946年)」の記事における「アメリカ合衆国と反乱軍の衝突」の解説
詳細は「米比戦争」を参照 1898年8月25日の米軍と反乱軍のカビテでの衝突でユタ連隊のジョージ・ハドソンが殺され、ウィリアム・アンダーソン伍長が致命傷を負い、第4騎兵隊の兵士4名が軽傷を負った。この衝突でアンダーソン将軍がアギナルドに「両軍が衝突するという非常に深刻な不運を避けるためにカビテから貴殿の衛兵と共に即時撤退することを要求する。貴殿の人民により我が軍の一人が殺され3人が負傷した。この要求は建設的であり、弁明や遅延の入り込む余地はない。」とする手紙を送ることになった。反乱軍内部のやり取りでアポリナリオ・マビニは当初攻撃したことが明らかな者を捜査し罰することを提案した。アギナルドはこれを修正し、「彼は貴殿の兵隊に殺されたのではなく寧ろ貴殿の電報によると向こうは酔っぱらっていたために自身(アメリカ人)により殺されたと言え・・・」と命じた。カビテの反乱軍将校は、当時「部隊の指揮官とその副官の命令により8月24日午後にアメリカ人に対する運動に参加した」軍務記録により報告した。
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