アメリカ、イギリス両国政府の介入
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「アルーストック戦争」の記事における「アメリカ、イギリス両国政府の介入」の解説
1839年3月2日、ワシントンD.C.でアメリカ合衆国議会の討論中、メイン州のスミス下院議員は出来事の概要、1825年以降取り交わされた様々な文書を説明し、連邦政府の主たる責任はその領土と市民を保護し防衛することだが、政府がその義務を行使しないならばメイン州だけでその領土を守ると宣言した。これに答えて議会はその緊急事態に5万名の軍隊と1,000万ドルの予算を充てることを承認した。メイン州はこの紛争のために3,000名ないし10,000名の民兵を集めた。チェロキー族強制移住の指揮を最近外れたウィンフィールド・スコット将軍が紛争地域に宛てられ、3月初めにボストンに到着した。 米英戦争のときに、スコット将軍はジョン・ハーベイ監督の下に戦争捕虜になっており、その関係が相互尊重のポイントと見られた。スコットの助言に従って、メイン州は5月と6月に民兵隊を呼び戻す一般命令を発し、それらは正規アメリカ軍に置き換えられた。その夏にフェアフィールド砦とケント砦の恒久的建設が始まった。R・M・カービー少佐がその基地と第1アメリカ砲兵連隊の3個中隊の指揮官となった。カナダからはイギリス軍第11連隊の4個中隊がケベックシティからその地域に行軍した。一方、ニューブランズウィック州はアルーストック川地域から流れるセントジョン川の支流全てを正規兵と民兵で武装した。1840年、メイン州はこの地域を管理するためにアルーストック郡を創設した。アメリカ合衆国とイギリスはこの紛争を国境委員会に委ねることに同意し、両軍の間の衝突は続くことになるが、この事態は1842年にロンドン条約、別名ウェブスター=アッシュバートン条約で決着されることになった。この条約ではこの北東部の境界だけでなく、カナダとミシガン州およびミネソタ州の国境問題も解決した。
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