アムダールとの提携
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 12:50 UTC 版)
1969年に尾見の人脈によって池田はIBMのコンピュータ設計者であるジーン・アムダールとアメリカで会談した。アムダールは次期開発で前例の無いMSIを搭載する方針についてIBM上層部と対立が生じており、最終的にアムダールは独立してアムダール社を立ち上げた。池田は1970年に47歳で富士通の役員になり、それまでの独自規格のコンピュータからIBM互換機へ転換を行った。社内でも賛否が分かれたが、日本のコンピュータ貿易が自由化される見通しとなりIBMへの対抗策として決定された。さらに通産省の平松守彦の指導の下で、いわゆる三大コンピューターグループの編成が行われ、富士通は日立と業務提携しIBM互換機「Mシリーズ」の開発を行った(この辺の経緯は、田原総一朗 人間発掘スペシャル「アメリカに勝った男! 日本コンピューター界の隠れた巨人 激動の生涯」で詳しく紹介されている(平松自身の証言も収録されている))。 1972年、富士通はアムダール社に出資を行い資本に参加した。当初は経営には関与せずに資金と技術ライセンスで協力する予定だったが、開発が遅れて資金不足になると富士通は計画の見直しを要求した。アムダール社は経営介入に反発したが1974年4月には池田がアムダール社の役員となり、日米を往復して問題の対処を行った。7月には経営コンサルタントのユージン・ホワイトがアムダール社の社長になり、製造は富士通に委託され、10月頃には完成の見込みがついた。11月10日、池田はカナダの提携先の社長を羽田空港で出迎えている際にくも膜下出血で倒れ、その後は意識不明のまま14日に51歳で亡くなった。富士通のIBM互換機FACOM M-190は1週間後に発表され、5年間で500台以上を売り上げた。姉妹機の位置づけになるアムダールのAmdahl 470/V6 も1981年までに累計で600台を出荷した。
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