アマチュア引退勧告、プロ転向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:02 UTC 版)
「村田諒太」の記事における「アマチュア引退勧告、プロ転向」の解説
ロンドン五輪終了後、村田はAIBAが設立するプロ団体APBへの参加を名指しで要請されていたが、現役を引退する可能性がある旨を記した公式文書を提出し、日本アマチュアボクシング連盟(現・日本ボクシング連盟。以下、日連)経由で辞退した。その後、村田はアマチュアでの現役続行を選び、AIBAから再度APB参加を要請されたが、再び辞退。その一方で、全日本社会人選手権への出場に意欲を示し、プロ転向に向けても独自に動くなど一貫性を欠いたと見られる行動をとっていた。五輪終了後に東洋大学総監督の東郷武は、3年以内に監督を任せようと考えていたというが、スポーツ報知によれば、2012年秋からはフジテレビ主導で、同局ボクシング中継の窓口である三迫ジム入り(プロ転向)を奨められていた。日連会長の山根明は、2013年1月14日に大阪市内で村田からプロ転向の意思を伝えられ、数日後に同ジムの会長・三迫仁志とマネジャーから、経緯報告のための訪問を受けた。 山根によれば、村田が「『プロ転向を他には言ってない』と話しておきながら、東京では(その動きを)ほとんど知っていた」ことも不信感を募らせる一因となった。日連は村田に対して2013年2月2日、大阪市開催の理事会で、引退かアマチュア続行かプロ転向かの進路決定をめぐる信義則違反を理由として、同連盟初となるアマチュア選手としての引退勧告を満場一致で決議した。山根は村田の言動には一貫性がなく、AIBAに対する約束違反があったと説明し、また一連の経過の中で選手の意思は尊重するものの、プロ側とは共存共栄を図れる関係で日連強化選手の引き抜きなどはないものと認識していたが「裏切られた」と不快感を示した。 村田は同日夜に山根と会談し、報道が先行して迷惑をかけたことを全面謝罪した。その後の会見で村田は改めてプロ転向の意思を表明し、引退勧告については「愛情ある措置をいただいたと、僕のことをしっかり考えた上ですべてのことを進めて下さっていると感謝しています。連盟の出された指示に従うだけですから」、またプロ入りについては「僕がプロに行く以上、負けは許されない。東洋大学もまだこの話を知らないですし、まず皆さんに応援していただける環境づくりをしたいと思います」と話した。三迫ジム関係者はまだ何も決まっていないと言い、「村田君と連盟のこういう関係は望んでいなかった」と困惑した様子を見せた。翌3日、日連は大阪市内で臨時総会を開き、村田への引退勧告を正式に承認した。引退勧告から9日後の4月12日、プロ転向を宣言し、三迫ボクシングジムに所属することとなった。 プロ転向の際の騒動について村田は2016年9月3日放送のザ・インタビュー〜トップランナーの肖像〜にて、「僕は初めは引退するつもりだった。でもチヤホヤされたのを含めて周囲から評価されるなかで、まだ体力的にイケるからもうちょっとボクシングがしたい、五輪金メダルを取ったような成功体験をもう一度味わいたいと思った。でもアマチュアで現役続行したいと言ったら『駄目だ』と言われた(誰に言われたか名前は明かさず)。なので後進の指導がしたいし英語の勉強もしたいから海外留学もしたいと職場に相談したがそれも駄目だった。それで今度はプロに転向しようかと妻に相談したら絶対に駄目だと言われ、迷っていた。そんな最中にNHKの課外授業 ようこそ先輩(2012年12月29日放送分)の収録で奈良市立伏見小学校で母校の小学校6年生と2日間過ごしてるうちに、昔の自分の夢が『五輪で金メダルを取ってプロ転向してラスベガスでやる』ことだったことを思い出した。収録を終えて妻に『もう1回自分の夢を追いかけたいからプロに行きたい』と言ったら許してくれた。たぶん妻は最初に相談した時はプロ転向の理由がアマチュアで現役続行できない、留学できないというネガティブな理由だったから駄目と言ったんだと思う。明日に向かっていくもの、次に向かうパワーが理由になったから許してくれたのだと思うので感謝している」と語っている。 4月16日に後楽園ホールでフジテレビ「EXCITING TIME」で生中継もされたプロテストマッチを受け合格、プロボクサーへと転向した。
※この「アマチュア引退勧告、プロ転向」の解説は、「村田諒太」の解説の一部です。
「アマチュア引退勧告、プロ転向」を含む「村田諒太」の記事については、「村田諒太」の概要を参照ください。
- アマチュア引退勧告、プロ転向のページへのリンク