アビシニア 1867年–1868年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 09:56 UTC 版)
「クレメンツ・マーカム」の記事における「アビシニア 1867年–1868年」の解説
1867年、マーカムはインド担当省地理部門の長になった。その年後半、ロバート・ネピア卿のアビシニア遠征隊に、地理学者として同行する者に選ばれた。 この遠征軍は、アビシニアのテオドロス2世が採った行動に対する反応として、イギリス政府が派遣した。1862年、テオドロス2世はイギリス政府に手紙で、エジプトの侵略者から守ってくれるよう依頼し、大使の指名も提案した。イギリス政府はエジプトを攻撃することになるリスクを冒したくはなく、返事を出さなかった。テオドロスはこの侮辱に反応して、イギリスの領事とそのスタッフを捕まえて投獄し、テオドロスの母を侮辱したとされる伝道者を逮捕、鞭うちを命じた。テオドロスの手紙に対する遅れた反応が、それを持って行った代表団の捕獲と幽閉ということになった。懐柔の試みも失敗した後、イギリスは遠征軍を派遣して事態を収拾させることに決めた。この国の地理はほとんど知られていなかったので、地図制作の技術がある経験を積んだ旅行者が軍隊と同行すべきと判断され、かくしてマーカムの指名となった。 ネピアの軍隊は1868年初期に紅海のアニスリー湾に到着した。マーカムはこの軍の本部参謀に付けられ、一般的測量作業と、特にテオドロスの山城マグダラへ向かう経路の選択が責任だった。マーカムは軍隊の博物学者としても行動し、海岸から南に400マイル (640 km) を行軍する間に遭遇した生物種について報告した。ネピアに同行してマグダラの壁まで行った。戦いは1868年4月10日に起きた。ネピアの前進してくる軍隊に対してテオドロスの部隊が山を駆け下りて突撃すると、「スナイダー・ライフルが発砲を続けると、アビシニア兵は誰も抵抗できなかった。彼らはなぎ倒され、...そのように圧倒的な武力の違いの前では、最も英雄的な者もなすものが無かった」とマーカムが記していた。マーカムに拠れば、勝ち誇った軍隊がテオドロスの遺骸を発見した後、「それに対して万歳三唱し、あたかも死んだ狐に対するようだった」となっていた。マーカムは、テオドロスの悪行が多く、その残酷さは恐ろしかったが、最後は英雄として死んだと付け加えた。 ネピア将軍の命令で、マグダラの町は灰燼に帰され、その大砲は破壊された。イギリス軍はその後に出発し、マーカムは1868年7月にイングランドに戻った。この作戦に従軍したことで、1871年にバス勲章を贈られた。
※この「アビシニア 1867年–1868年」の解説は、「クレメンツ・マーカム」の解説の一部です。
「アビシニア 1867年–1868年」を含む「クレメンツ・マーカム」の記事については、「クレメンツ・マーカム」の概要を参照ください。
- アビシニア 1867年–1868年のページへのリンク