へいぜい‐てんのう〔‐テンワウ〕【平城天皇】
平城天皇
母は藤原乙牟漏。
785年廃太子の早良親王に代わり立太子した。
806年父桓武天皇の崩御によって即位した。
生来病弱であったといい、藤原帯子の母である藤原薬子らの内部抗争で翻弄されたという。
また度重なる遷都や征夷軍の派遣で疲弊していた財政を引き締めるため、官僚組織の統廃合や地方行政の円滑化を行った。
病身を理由に同母弟、神野親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり旧都の平城京へ隠棲した。
しかし健康が回復すると国政に関心が戻り、平城遷都の詔を発するなど「二所朝廷」と称される分裂状態となった。
藤原薬子や藤原仲成らの甘言により重祚を望んで挙兵の準備を始めたが、嵯峨天皇が先手を打って藤原仲成を捕らえ(後射殺)し、藤原薬子へ与えた官位を剥奪し(後自殺する)てそれを阻止した。
上皇は東国へ逃れようとしたが坂上田村麻呂の兵により阻止され平城に戻り髪を剃って仏門に入った(「薬子の変」という)。
上皇は824年に崩御し、陵は奈良市佐紀町にある楊梅陵と治定されている。
第51代天皇 | |
天皇名 | 平城天皇 |
読み方 | へいぜいてんのう |
名・諱等 | 日本根子天推国高彦尊 |
読み方 | やまとねこあめおしくにたかひこ |
時代区分 | 古代 |
天皇在位 | 806年から809年 |
生年 | 774 |
没年 | 824 |
父 | 桓武天皇 |
母 | 藤原乙牟漏 |
兄弟 | 神野親王(嵯峨天皇) |
配偶者 | 藤原帯子 |
皇子女 | 阿保親王・高丘親王 |
即位宮 | 平安京 |
天皇陵 | 楊梅陵 |
所在地 | 奈良県奈良市佐紀町 |
平城天皇 楊梅陵
(へいぜいてんのう やまもものみささぎ)
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