その他の著名な摂政皇太子、摂政宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/30 07:46 UTC 版)
「摂政皇太子」の記事における「その他の著名な摂政皇太子、摂政宮」の解説
特に肩書きを持たなかった者を含め、さらに多くの摂政皇太子、摂政宮の事例は、英語版の「Regent」を参照。 デンマーク皇太子フレデリク(後のフレデリク6世)は、発狂した父王クリスチャン7世に代わって1784年から1808年まで摂政を務めた。 プロイセン皇太子ヴィルヘルム(後のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世)は、精神を病み統治できなくなった兄王プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に代わって1858年から1861年まで摂政を務めた。 フランドル伯シャルルは、兄のベルギー王レオポルド3世の立場が第二次世界大戦後、リリアン・バエルとの結婚によって危うくなりかけた時期、1944年から1950年にかけて摂政を務めた。 清の睿親王ドルゴンは、1643年から1650年まで、甥であり即位時にまだ6歳だった順治帝の摂政を務めた。ドルゴンは、明の正当な後継者として清朝を建てるため、満州族の勢力が1644年に北京へ侵攻するために力を発揮した。清の歴史書において、ドルゴンは「摄政王」として言及された最初の人物となった。 醇親王載灃は、清朝末期の1908年から1911年まで、幼い息子宣統帝の摂政を務めた。ドルゴン以外で「摄政王」と称されたのは中国史上、載灃だけである。 日本の昭和天皇は、即位前、皇太子であった1921年から1926年まで、病気だった父・大正天皇に代わって摂政宮として公務を行った。 ユーゴスラビア王国のパヴレ王子は、1934年から1941年まで、セルビア語で「摂政皇太子殿下」を意味する「Његово Краљевско Височанство, Кнез Намесник」の称号で呼ばれていた。 ブラジル公ジョアン(後のジョアン6世)は、精神を病んで統治不能となった母、ポルトガル女王マリア1世の摂政を1792年から務め、1799年には「Príncipe Regente」すなわち摂政皇太子と称されるようになり、母の死後即位する1816年までその地位にあった。ジョアンの摂政時代は、有名なポルトガル宮廷のブラジルへの避難があった。 自称国家シーランド公国の君主の法定推定相続人である Michael Bates は、公国の摂政皇太子として言及される。
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