板屋兵四郎(いたやへいしろう ?-1653?)
寛永 9年(1632)加賀藩三代藩主前田利常は、前年の大火を機に金沢城と城下の防火・生活用水の確保を目的に用水工事に着手した。その工事の責任者として、用水開削や灌漑事業などで実績があり、算盤勘定と測量が得意との評があった能登奥郡の小代官板屋兵四郎を抜擢した。
工事に着手した板屋兵四郎は、取水口の選定にあたっては、慎重な踏査測量を実施し、取水地点を石川郡上辰巳村地内の犀川とした。用水は、取水地点から小立野台地段丘崖に沿って進み、しばらくの間は暗渠とした。その理由は土砂の崩壊や積雪による障害を防止するためであったといわれる。その後は、開渠として兼六園を経て城内に引いた。総延長約10,661m、うち隧道部は 約3,298mであった。
取り入れ口から城内までの距離は約10km、標高差はわずか 50mであるから、10m進んでわずか5cmという微妙な傾斜の用水路工事である。伝えられているところでは、夜間に提灯を上下させて、遠距離地点からこれを観測し、等しい高さの点を求め、さらに各点間の距離を得て、これから水路の勾配に見合った高さを決めて工事を実施したという。この時使用された測量器は、「町見盤」と呼ばれる一種の水準儀によって測定した。
彼は、堀を越えての引水には逆サイフォンの原理(我が国最古のもの)を使用するなど、測量だけでなく土木工事の面でも優れた技術を用いている。また、辰巳用水に使われた石管の中心線の一致など、その精巧さにも目を見はるものがあるという。その遺物は、道路や水道工事などの市街地開発に際して多数堀出されている。
そして、現場の微妙な標高差や暗渠の多い工事を考えると、相当精緻な測量を実施したものと考えられるが技術の詳細については、これも技術の漏洩を防ぐ目的からか、残された資料も少なく、明らかでない。それどころか、板屋兵四郎は工事完了後に謀殺されたという説もある。兵四郎の工事事務所にあたるものがあったといわれる河北郡袋村には板屋神社があり、ここには以下のような話が伝えられている。
「この地では、謀殺説の翌年に天候不順となり、これは板屋兵四郎の祟りであるとの噂が流れた。そこで、袋村の八幡社に彼の霊を合祀して、袋の神(風を袋に封じ込める)と呼んだ」という。上辰巳町にも板屋神社があり、彼を主祭神として昭和35年に創建された。何れの神社にも辰巳用水で使用した石管が残されている。

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