『(新)論叢』
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「エリザベート・ハインペル」の記事における「『(新)論叢』」の解説
ゲッティンゲンへの帰還は、エリザベート・ハインペルにとって、ヘルマン・ノールのグループの中で自身の教育学の仕事を再開することと繋がっていた。ノールの指導のもとで、その当時ワーグナー通りにあった教育学ゼミナールは、教育学の新しい方向付けの中心地になった。 エリザベート・ハインペルは、ノールの始めた月刊誌『(新)論叢』に定期的に寄稿を続けた。この雑誌は戦後のこの時期大変大きな影響を及ぼし、教育学の論文の寄稿だけでなく、いわゆるノールグループの機関誌でもあった。彼女はこの雑誌の共同編集者となり、自身の執筆活動としては、彼女にとって、想像的な諸要素を元にして子どもの発達を促進する童話の意味解釈に力を注いだ。加えて彼女は1951年 に„Das Fenster nach Osten“ (Heimpel 1951, 527–540)を刊行、アントン・マカレンコ (1888年 – 1942年)の教育学と彼の人となりをドイツに紹介した。彼の「ゴーリキーコロニー」での保護者もなく、非行に走った子どもたちのもとでの社会教育的に仕事はこの時初めて西ドイツで知られることになり、様々な議論を呼び起こした。 同じく彼女の功績とされるのは、ポーランドの医師で教育者であったヤヌシュ・コルチャックの著作をドイツ語に翻訳したことである。テキストの原典は『人はいかに子どもを愛するのか』で、この中でコルチャックは彼の人生のほとんど全てとなった孤児院「ドム・シエロ」での自らの活動を詳細に語り、これは彼の主著ともなっている。もうひとつは『子どもの権利の尊重』で、こちらにはポーランド史の研究者ハンス・ロースが序文を寄稿している。その後、エリザベート・ハインペルは、『論叢』の共編者を引き受け、1961年にノールの亡くなった後は、監修者になった。雑誌のタイトルは、『(新)論叢 ゲッチンゲン文化、教育雑誌』と変更された。編集者として彼女は、雑誌の掲載記事の内容を精査し、それによって当時の教育学に大きな影響を及ぼした。そこに発表されたものの重点は、教育学と政治の相互作用と言う所に置かれた。
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